新進ヴァイオリニストにイザイの無伴奏は必須なのか?

先日、ある若いヴァイオリニストさんのリサイタルの批評に、こういう一文を入れさせていただきました。

なお、イザイの無伴奏ソナタは、本来、のらりくらりと進む達人の枯れた「話芸」を聴かせる曲であり、若手の腕試しに利用する風潮は根本的な誤解だと思う。

前後に、他にもいくつかの疑念みたいなものを書いたので、この文言も演奏家さん個人への批判であると受け止められたようです。でも、そういうことではないつもりなので、以下、補足。
最近、お子様の音楽のおけいこ事情を伺う機会がありました。

あくまでひとりの人から話を聞いただけなので、どれくらい一般的なレポートなのかはわかりませんが……、

その方によると、今は、「ピアノのおけいこ」というのは、だいたい幼稚園「まで」に経験させてしまうのが一般的なのだとか。見込みがあればそのあとも続くのでしょうけれど、たいていは短期間で止めて、そのあと他の「おけいこ」へ変わっていくのが普通だと聞きました。そして音楽であれば「本命」はヴァイオリンなのだとか。

「ひととおり経験させておく」ことが重要なのだそうです。この考え方を聞いて「予防注射」を連想してしまったのですが(将来「音痴」というような病気をこじらせないために、物心つく前に「ピアノ」を注射をしておいたほうがいいというような……)。でも、「一芸」としてのランク(希少価値)はピアノよりヴァイオリンのほうが上なので、ピアノは早々に切り上げてヴァイオリンをやらせてみる、ということであるようです。

想像ですが、おそらくこういう「音楽の早期教育」は、お受験に向けた学習塾とか、各種スポーツクラブや[ボーイ|ガール]スカウト等々、趣味・文化の全領域にくまなく広がる「おけいこ」システムの一部なのでしょう。ひとつの部門が続かなければ次に移ればいいのであって、そうやって順番に回っているうちに「大人」になる。現代日本のお子様/親御様事情というのは、東浩紀さんであれば「ゲーム的リアリズム」論の格好のフィールドとして目を輝かせそうな状況なのだなと思いました。(だから東さんのブログには、お子様の巨大な写真が掲げられているのでしょうか。子育てとは、「子供」というリアルな生命体の将来を賭けた、現代社会最大の「ゲーム」である。それを真正面から引き受けるのが現代の「親」というものであり、巨大な子供の写真を掲げて「親」の立場を堂々と引き受けるのが批評的営為なのである、とか……。)

こういう話自体はあまり新鮮なものではないと思うのですが、ふと思ったのは、ピアノよりヴァイオリンの「一芸ランクが高い」というのが、関西ローカルの基準なのか、日本全体でそうなのか、あるいは国際市場のグローバル・スタンダートなのか、どうなのだろう、ということです。

スケートで「世界の頂点」を目指す女の子は、かならずこれができなければいけない、というようなものとして、イザイの無伴奏を○○歳で弾かなければいけないことになっているのか。

それとも、イチローが体格でアメリカ選手にかなわないことを前提にして、守備と安打の職人としてメジャー・リーグに食い込んでいったみたいに、「無伴奏曲」での「ノーミス」が、日本人の世界戦略として有効であるということなのか。

それとも、古くは、家のお金で「ストラド」を購入した貴志康一や、一世一代の借金で楽器を買った辻久子さんや、母子一体で「神童」になった五嶋みどりさん(私はみどりさんが本当に希有のは、大人になってからの活動だと思っていますが)とか、関西には、ヴァイオリンのソリストが育ちやすく、新進ヴァイオリニストを歓迎する土壌があるのか。

それとも、そんな歴史的な話ではなく、たまたま現時点で有力とされる教育システムや先生の趣味なのか。

はっきり特定することは難しいのだけれど、何かそういう、若い演奏家さん個人に責任を負わせることのできないバックグランドがありそうな気がしたので、冒頭のような文章を書き残しておこうと思ったのです。

今回演奏を聞かせていただいた若手ヴァイオリニストさん個人の思いや事情というのはもちろんあると思います。でも、そうであればなおのこと、個々人の特性や「思い」を注ぎ込みうる「オーダー・メイド」コースがあまり整備されていなくて、ある程度「弾ける/見込みがある」と判定されたとたんに、一定の「型」にはまっていくしかないかのような状況に、客席から聴いていて、納得できない感じを抱いてしまったということなのです。

言い古されたことのようではありますが、言い続けないとヒトはすぐに環境に馴れてしまったり、なし崩しに何かを忘れてしまったりするみたいなので……。