やった者勝ち?

[10/23追記あり]

日本音楽学会第60回全国大会(大阪大学、10月24日(土)、25日(日))のシンポジウムIIとして、こういうのがあるようです。(非会員も参加可能なのに、開催一ヶ月前になっても公式サイトに情報なし。ID・パスワードでガードされた会員専用ページだと見れるのでしょうか?)http://wwwsoc.nii.ac.jp/msj4/activity/activity_main.html

シンポジウムII 第一次世界大戦と音楽史 コーディネーター:岡田暁生(会員・京大人文研)、パネリスト:小関隆(西洋史学会・京大人文研)、河本真理(美術史学会・広島大学)、久保昭博(仏文学会・京大人文研)

コーディネーター以外全員非会員、というのはゲスト講演とかならともかく、学会シンポジウムとしては異例な感じがしますが……。

そして、隣接諸学科に開かれた議論の場を設けるというのであれば、コーディネーターを含む4人のうち3人までが京大人文研というのは、えらくバランスが悪いように感じるのですが……。

人文研って、そんな風に、日本音楽学会が三拝の礼でご一行様をお迎えしなければいけないスゴイ研究機関なの?

同じ関西なので、ゲストでも交通費・宿泊費がかからないから安上がり、ということはあるかもしれませんが……。

「内容が良ければいい」とか、そういう話なのか。

もし大フィルの定期演奏会で、コンマス以外全員がエキストラだったとしたら、定期会員はどう思うか? 在阪オケの首席奏者総出演で、「こんなに良い演奏だったら、これからもこれでやれば」という話になるのか。それはもう別のオーケストラではないのか。

人文研の会議室でやればいいのでは、という話になりかねず、こういう風に「身内」で固めた座組みをしてしまうと、せっかく来ていただくのに、お来しいただいた方々が、かえって居心地が悪いのでは、と思ってしまいます。全員が岡田さんのように他人の意見をつっぱね続けられる人ばかりではないでしょうから……。

主催者側に、誰か止められる人はいなかったのでしょうか? なんだか恥ずかしい。(どちらにしても、私は行きませんが。お金ないし。)

[10/23 追記:いくらなんでもそこまで露骨とは思っていなかったのですが、「音楽の聴き方」のあとがきによりますと、小関、久保両先生は、岡田暁生氏に「時ならぬジャズ狂いのきっかけ」を与えてくれた「端渓すべからざるモダン・ジャズ通」なのだそうで……、何のことはない、ジャズ仲間を、まるで自宅へ招待するかのように学会へご招待、ということのようです。こういうのを通常「公私混同」と言うのでは??]

(それに、日本で第二次大戦こそが20世紀最大の戦争とみなされ、第一次大戦への認識が薄いのに比べて、ヨーロッパの精神史や社会史では第一次大戦こそが19世紀と20世紀の分水嶺だったというのは、西洋文化を扱う者に比較的共有されている認識ではないでしょうか。そして20世紀が既に終わったのか、まだ続いているのか、という問いを立てることは可能で有益かもしれませんけれども、これまでの著作で20世紀をあまり上手く処理できているとは言えない岡田さんがそれを言いだすと、ニュアンスが変わる気がします。20世紀がまだ続いているということはすなわち、第一次大戦こそが「偉大なる19世紀西欧文化」を殺した張本人であり、その傷から我々はまだ癒えていないということである。19世紀を殺し、芸術音楽(クラシック音楽)を滅ぼした戦争を私は決してゆるさない。リメンバー第一次大戦!! このシンポジウムには、なんだかそういう極端な反動の臭いがします。それは、ヨーロッパの人にとっても有り難迷惑なのではないか。ドイツ人が「ニッポンジンハ、大正時代デ堕落シマシタ」と主張して、カイゼル髭で毎週集まって森鴎外や夏目漱石、乃木希典や東郷平八郎を顕彰し、大日本帝国憲法や軍人勅語、教育勅語を暗唱していたら、相当に異様でしょう。京都帝国大学建学の精神を忘れない愛校的な行為ではあるかもしれませんが。)

[10/17追記:

今回のシンポジウムに来てくださる唯一「非人文研」な方、河本真理さんの現職が間違っていたので訂正しました。(……と思って再確認したら、やはり広島大学であっていたようです。失礼しました。)

また、最近別のことを調べていて、河本さんの著書「切断の時代」に行き当たりました。コラージュ論。これから読みますが、序文・目次などをざっと見たかぎりでも、「第一次世界大戦を考える」というような漠然としたテーマでお呼びするのはもったいないと思いました。

切断の時代―20世紀におけるコラージュの美学と歴史

切断の時代―20世紀におけるコラージュの美学と歴史

この本は、コラージュを美術に限定されないパラダイムと位置づけていこうとする広がりを示唆しつつ書かれているようですが、残念ながら、目次を拝見するかぎり、音楽における試みは主題的には扱われていないようです。(本文中に個別トピックとしては出てくるのかもしれないのですが……。)

音楽学会が「隣接分野との出会い」を演出するのであれば、20世紀の音楽におけるコラージュの諸相といった問題群と付き合わせるのがよかったのではないでしょうか。庄野先生などのようにミュージック・コンクレートのことを語れる人、あるいはNHKラボのテープ編集音楽のこと、ポピュラー音楽におけるリミックスなど。岡本さんの研究と付き合わせることで、啓発されることが色々あると思います。

「お山の大将」が、自分に都合の良いテーマを設定して人を呼びつけて、強引に自分好みの話を披瀝する。まるで「関所」をドカドカと設営して、出会うべき人をスムーズに合わせようとしない、「他のムラへ行きたいやつは、オレを通せ!」みたいなことをやっているから、音楽研究が広い文脈に開かれずにくすぶってしまうのではないのか。音楽を聴く「型」とか「俯瞰」とか言っている人が、「切断」「貼り合わせ」というパラダイムを適切にさばけるとは思えない……。改めて会報のレジュメを読み直すと、文責・岡田暁生で既に全参加者の話す内容・シンポジムの流れから結論までが決まっていて、全然シンポジウムではなく、4人による共同発表・共同声明みたいに見えます。(他人の発表内容を貼り合わせ(コラージュ)して、なおかつ継ぎ目を隠す。あなたはマックス・エルンストか?20世紀を通過した感性による仕事とはとても思えない。そんなに欲張らなくても、100年前に黄昏れた19世紀を愛するクラシック音楽の墓守のポジションだけでも十分幸せな余生は送れるでしょうに……。)これでは、プレスリリースを文書で配っても同じなのではないか。河本さんの本には、こういう「総論」に回収できない知見が色々詰まっていると、最初の数節を読んだだけでも思うのですが。

10/17追記おわり]

      • -

[追記]

そういえば最近の日本音楽学会では、応援団を集めてコーディネーターが自説を強化・喧伝するプロパガンダの場、いってみれば「決起集会」のようなシンポジウムが目に付くなあ、という気がします。

ソクラテスが「対話」を哲学の根幹に据えた人だったことを伝えるためにプラトンが「饗宴(シュンポシオン)」を書いた、というのは哲学のとりあえずの常識だと思いますし、美学、ひいては、音楽学の一領域である音楽美学は哲学的方法論を基礎にしているのだから、まさか、音楽美学者を標榜する人が、そうした「対話」(異質な意見をもつものの間の議論)がシンポジウムに建前としてではあれ期待されていることを知らないはずがないのに……、

東京に、「運動/ムーヴマン」というものに愛着をお持ちであるらしい長木誠司さんなんかがいらっしゃることが、「対話から決起集会へ」路線の底流なのでしょうか。

記憶を辿ると、増田聡くんが大暴れしたらしい回もありました。今思えば、そのあたりが分水嶺で、なし崩し的に「シンポジウム=決起集会」路線が是認・解禁、あいつがやるならオレもやる、状態になっているのかもしれませんね。増田くんも罪なことをしたものです。

彼(増田)くんは、社会学の人などと一緒の場で、しばしばご自身のことを「美学者」と名乗っていましたが、たぶん、ソクラテス/プラトンには興味がないし、そんな「古典の素養」なんてクソ食らえ、という態度こそがロックンロールだ、という戦略で突っ走った結果が現在のお立場なのでしょう。(若き日の彼に蹴散らされてしまったいくつかの御霊が今は時を経て傷が癒え、安らかであることを祈念します。)

ともあれ、

長木さんも出席されていた「戦後音楽を研究しよう」決起集会的なシンポジウムから数年、確かに今年の発表一覧をみると、戦後あるいは近代日本をテーマにする発表が随分たくさん出てきたようです。

こんな風に、大号令のもと、学会のヘゲモニーを握る儀式というものが必要とされているのであれば、いっそ、「シンポジウム」ではなく、「活動方針案」とか「綱領」とか「五カ年計画」とかということで、学会のしかるべき機関でも作って採択・発表なさってはどうでしょう。会長直属の「音楽学戦略室」(将来は「局」への格上げを目指しているが、現在のスタッフは2名)とか(笑)。

そうすれば、そんな「党大会」ごっご遊びに興味のない人は行かなくて済むし、「決起集会」をやりたい人達も、「空気の読めない」部外者に邪魔されず、円滑な大会運営が可能になるでしょう。

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行政が公聴会や審議会を段取りしたり、「○○建設問題を考える会」のような場を設けるときには、形だけでも各論併記、各方面のご意見を伺います、という形になるようにするらしく、それはおそらく形骸化して辛うじて伝承された、「饗宴(シュンポシオン)」の名残りのようなノウハウなのだと思います。

世間一般がどうなのかは知りませんが、最近の日本音楽学会は、そういう辛うじて残っていた最後の一線みたいなのも切り捨ててもいいことになってしまっているようですね。

なるほど「運動」の論理と精神から言えば、それは、「旧弊を廃し、一歩でも他人より先へ進んでいる」ことのあらわれであり、その「動いている」感じは、たとえ後に路線変更を迫られるスクラップ・アンド・ビルド(戦後の土地開発の多くがそうであったような)になろうとも、どことなく「進歩・進化」のイメージに似ていて嬉しいのでしょう。

(人はいつか月へ到達できる、そしてスターチャイルドへと人類は進化する、そんなSFチックな未来への旅が、神なき20世紀の最も人心にアピールできるポピュラーでプラグマティックにわかりやすい信念(宗教?)として、主に「少年」の心をつかんだ時代が確かにあったような気がします。モノを作っては壊す、ときには墜落したりもするけれど、そのスペクタクルこそが、戦後のある時期を体験した世代にとっては、「進歩・進化」の今なお清算・総括できない原像であり続けているのかもしれませんね。「学会」もまた、「進歩・進化」のためには、どんどん壊して、組み立てる、また壊す、をトラウマに取り憑かれたかのように繰り返さなければいけないのでしょう、彼等の考えでは……。)

反面、かなりドメスティックな感じもあって、

「どうせシンボジウムで、議論・討論なんてどこもやってない」

という開き直りをテコにして、気の合う仲間が舞台上で「そうだそうだ」と勝手に盛り上がる。そのほうが楽だし、話がはずむ。「運動」の背後には、ぶっちゃけの本音が見え隠れしたりもするのですが、そういう風に青臭いのは、「運動」の論理と精神に照らすと、むしろ、歓迎されるべきことなのかもしれません。言うことは立派なのに、どこかグダグダ感がつきまとう……。

(ゲストには幾ばくかの謝礼が出るはず。お金もらって、お友達とおしゃべりするだけでいいのだから、そりゃ、呼ばれた方も楽なはずです。タレントをひな壇に並べるスタジオ・バラエティ・ショウみたいなものですから。)

そんな「運動/決起集会」にして「スタジオ・バラエティ」なシンポジウムのニュータイプ(そういえば、この種の「運動」好きの人は、「新型」「新製品」という言葉に弱い傾向があるような)を、意図的なのか意図せずなのか、かつてブチあげていた増田くんは、ちょうど岡田さんが助手だった時代に阪大音楽学研究室に入ってきた人。長木誠司さんは、言うまでもなく、朝日新聞で岡田さんとお仲間なわけですが、これは偶然なのか。

日本音楽学会の公式サイトで、学会の消息を伝える会報が会員専用ページに隠されているのは、学会が学問というコモンズを充実させる活動ではなく、内輪で盛り上がる場であって、他人様にはお見せできないということなのでしょうか? あるいは、年会費の一万円を支払った者だけが、この奇妙な秘密集会への参加を認められているということなのか……。

      • -

さらに連想を広げますと、

かつて音楽之友社の『音楽芸術』という雑誌がありまして、前衛音楽運動のプロパガンダに邁進するその路線には、運動に賛同できない人達の間で、「偏向している」という声があったようです。

そして雑誌『音楽芸術』は、1960年代の数年間だけ、まるで理科系の本や欧米の雑誌みたいに横組みだった時代があります。雑誌本体はその後、縦組みに戻りましたが、節目に出る臨時増刊号や、終刊時に出た『日本の作曲20世紀』は、「運動」の全盛期を振り返るかのように横組みになっています。

[10/16追記:雑誌『音楽芸術』についてはこちらもどうぞ。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091012/p1]

日本音楽学会の機関誌『音楽学』は、音楽之友社で版組していたはず(すくなくとも昔はそうでした。今もそうなのか、ちゃんと確認していませんが)。そして『音楽学』という雑誌は、横組みで、判型がその頃の『音楽芸術』によく似ているのです。

この学会は、プロパガンダや決起集会が大好きなDNAを継承する集団で、何かの拍子にそれがこうして発現してしまうということなのかもしれませんね。

「シンポジウム2.0、本当の進化はこれから始まる」路線は、(新しさを標榜するようでいて微妙に遅れてる感じを含めて)正直、とても鬱陶しいのですけれども、日本音楽学会の歴史に伏流する「サガ」みたいなものを垣間見るようで、興味深いことではあるかもしれません。

[さらに追記]

なお、この全国大会では、書評Iとして、吹上裕樹さんが岡田暁生「音楽の聴き方」を書評なさるようです。

通常の研究発表より10分長い1時間が持ち時間に割り当てられていますが、ここから、この学会は、研究発表よりも書評のほうが重要であるとみなしているとのメタメッセージを読み取っていいのかどうか……。

それはともかく、出版からわずか3ヵ月というタイミングでの書評は、おそらく学術書に対する学会での書評としては極めて異例に迅速だと言わねばならないでしょう。

持ち時間が1時間も割り当てられているのですから、おそらく本格的な書評なのでしょう。つまり、対象が新書であるとはいえ、この本が学術書として扱うに足る体裁・内容を備えているかを精査して、なおかつ、学術書として読むのであれば当然押さえておくべき諸々の文脈を検証する作業がわずか3ヵ月で成し遂げられたということなのでしょうから、これは実にすばらしい。

さしあたり岡田本は「音楽(の聴き方)入門」という趣旨の啓蒙書であると見ることができるでしょうが、日本語で書かれたその種の書物は周知のように無数に存在します。学術的な書評である以上、そのような日本語の一般向け音楽入門書の系譜を押さえたうえでの、岡田本の位置づけがなされるのでしょう。私の知る限り、そもそも、日本語の一般向け音楽入門書の歴史と系譜についてそれほどまとまった先行研究はないと思いますので、これだけでも博士論文に相当する一大研究になりそうです。

しかも、岡田本では、パウル・ベッカーやアドルノ、バルトといった名前と彼等の発言が要所で参照されています。おそらく評者は、こうしたヨーロッパ20世紀の音楽批評的言説が当初属していたであろう文脈を押さえた上で、岡田本における引用や言及がその文脈を単に是認しているのか、それとも、あらたな文脈にそれらの言葉が置き直されているのか、といったことを逐一精査なさったのでしょう。そのためには、岡田氏が直接言及した発言の背後にある文脈が同時に押さえられていなければならないのですから、おそらく評者は、それぞれの著者たちの主著やその周辺をもご確認されたに違いない。パウル・ベッカーには、今ではなかなか入手しにくい著作もあるようなので、わずか3ヵ月でそれだけのことを成し遂げる行動力に感嘆します。

さらに、岡田氏は、三島由紀夫といった昭和の作家、村上春樹や南博といった現役の作家、ミュージシャンにも言及しています。三島由紀夫を教養として読破しているということは大学人を目指す人であればあってもおかしくないですし、趣味として「人気作家」村上春樹をデビュー作から全部読んでいるとしても不思議ではないし、南博さんも、ジャズに造詣の深い人であれば、あるいは知っていておかしくないのかも、とは思います。

ただ、村上春樹や南博という名前を導入すると、そこで言及される「音楽」が、いわゆるクラシック音楽の枠を踏み越え一挙に広がりますから、これは本当にすごいことですよね。評者は、岡田本が直接取り扱っている西洋クラシック音楽について一定の見識をもっているのはもちろんのこと、日本における音楽啓蒙書の系譜、西洋の音楽評論からジャズ、ロックまでを守備範囲としているのでしょうか。

(村上春樹は初期の頃から何らかの形で音楽に言及していたはずなのに、岡田さんが彼に言及したのは今回の「音楽の聴き方」が最初です。おおかた、「オペラの運命」の最後で突如、映画「フィッツカラルド」が言及されるように、編集者か誰かに紹介されて、ハルキ本は一冊読んだだけなのではないかと思えてしまうのですが(そして「フィッツカラルド」やハルキ本を薦める編集者の趣味があまり良いとは私には思えないのですが)、たとえそうであったとしても、万が一著者の責任感の薄い思いつきであることが予測されるとしても、それが書かれてしまった以上、その本を評する者は何らかの形で対応しなければ仕方がない。「どうせガセネタ」と思ってもひととおり裏を取って可能性を地道につぶしていくのが調査・研究というものであるはずですし、「学術的」な書評を引き受けた人が、まさか、そんな調査・研究のイロハを怠るはずがない。)

しかもそれだけでは終わりません。

岡田本は、「音楽に文法がある」と説き起こすとっかかりとして、「金色夜叉」を引き合いに出します。岡田さんは七五調の台詞の典型としてこれに言及しているのですから、当然、尾崎紅葉の原作というよりも、新派の舞台が想定されているのでしょう。日本の演劇・芸能における七五調とは何なのか。そしてこの広大な広がりのあるテーマのなかで、貫一・お宮はどのように位置づけられているのか。もし岡田本を学術的に論じるとすれば、能や和歌や歌舞伎やその他無数の古典芸能や、明治以後の演劇改良・近代劇の台詞術における七五調の展開といったことを押さえた上で、岡田氏の言及の適否が検討されねばならないでしょう。はたして貫一・お宮は、通俗的な七五調理解にのっかっただけのサンプルに過ぎないのか、もうちょっと別の文脈をその背後に想定できるのか。

(私は前者、安直なサンプルに過ぎないと踏んでいますが、「学術的」にやるなら慎重であったほうがいいでしょう。例えば、岡田本のあとがきにある「セミの声」問題。以前に書いたように、本書ではやや浅薄な扱われ方がされているわけですが、あとで調べてみますと、岡田暁生さんの祖父、岡田柿衛氏は芭蕉の蒐集・研究家で、「静けさや」の句の芭蕉自筆色紙を所持していたそうな。

http://www.kakimori.jp/

岡田家には、ひょっとする代々、芭蕉に反する者はすべからく軽蔑される、たとえ恩義のある人であっても芭蕉優先!という法度・不文律があるかもしれず(笑)、将来、岡田暁生氏が、伊丹市柿衛文庫に何等かの形でかかわり、俳句について語り出すという事態だってあながちあり得ないことではないかもしれないですから、阪神間山の手モダニズムのお坊ちゃまの内面世界は、一筋縄でいきません。油断は禁物。)

この本の書評を引き受けたということは、どうやら評者は、日本の芸能・文学にも造形が深くていらっしゃるのでしょう。ひょっとすると、若くして、号を持っていたり、何かの名取りでいらっしゃるとか……。

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要約すると、こういうことです。

岡田氏の「音楽の聴き方」という本は、音楽の聴き方には「型」があり、それを言語的に修得することに何ら後ろめたさを感じる必要などありはしない、という、とりあえず、それだけを取り出すと大して目新しくもない論旨らしきものがあるかのようにも見えます。

でも、この話は、既に出版社の宣伝文句に書かれている、読む前からわかっていることでもあります。岡田本は、この筋書きに沿って紹介されるのがほとんどであるようですが、そんな風に、売り手の意図をなぞるだけでは、本を「読む」ことにはならない。

(オペラのあらすじ紹介をめぐるジョークとして、「フィガロの結婚」というのはフィガロが結婚するお話です、「奥様女中」というのは女中が奥様になるお話です、おしまい(笑)というのがありますが、「音楽の聴き方」という本を上記のように要約しておしまい、というのは、その種の桂米朝の息子さんなんかがよく使っているありふれたネタに似ています。)

そして実際に本を読んでみると、この「論旨」らしき話の周囲に、手当たり次第にぶちまけるかのような蘊蓄が張り巡らされていることがわかってきます。どうして著者の苦し紛れにつきあわねばならないのか、困ったものではありますが、この蘊蓄の森につきあうことが、この本を「読む」ということだと思います。

ご推察のとおり、それぞれの一見もっともらしい蘊蓄は、個別に精査すると怪しげであったり、浅薄であったりするようだ、という風に、少なくとも私は思っています。

けれども、個々の蘊蓄の適否を具体的に検証するのは随分と面倒なことでもあります。

ちょうど前のおぼっちゃまであった総理大臣がボケなのか何なのかよくわからない思いつきを次から次へと口にして、なんとなく何事かが起きているかのような雰囲気を作って時間を稼いでいたのに似た、「読者を煙に巻くトラップ」が、麻生政権末期に刊行されたこの岡田本には無数に張り巡らされているわけです。(あたかも火事場泥棒的な新書ラッシュが自民党政権末期と似ていることを身を持って示すかのように。)

こんな面倒くさい本を、よくもまあ、「学術的に」書評することを引き受ける人がいたものだ。それが私の感想です。

(同じ著者の、学術書を意図して書かれているが故にプラス面・マイナス面がはっきりと読み取れる「ピアニストになりたい」をスルーして、もともと純粋な「学術書」を意図していたとは思われないこの本を、しかも出版後3ヵ月という慌ただしい時期におっとり刀で取り上げる浮き足だった感じには、どうしても失礼ながら「便乗」という言葉が思い浮かんでしまいますし……。本格的な岡田暁生論をやるのだとしたら、どう考えてもメインターゲットはこの本じゃないだろう、とも思いますし。とにかく、「学会」でこれを単体でポンと取り上げる、というのはなんとも居心地が悪い。)

(あるいは、京大人文研ご一行のかわりに、ドイツ批判哲学やフランス現代思想、近代文学論や近代演劇の専門家、村上春樹を論じられる現役文芸評論家や南博を熟知するジャズ評論家などを招き、音楽学会会員の日本音楽研究者や中世・ルネサンス音楽の理論・記譜法研究者、日本洋楽史研究者、そしてもちろん西洋芸術音楽研究者を交えて、岡田暁生「音楽の聴き方」を2日間かけて総力批評・徹底解剖する。そして、ちょうど「水からの伝言」に自然科学者が警告を発するようにして、社会的影響力にかんがみ、この本の良いところ・悪いところを一覧にした日本音楽学会公式見解を作成する、というのであれば、まだわからないでもないかもしれませんが。シンポジウムって、そういう風に多彩な人材が一同に会する場のことでしょう、本来。)

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吹上裕樹さんは、関西学院社会学科の博士課程に在籍していて、例えば昨年のポピュラー音楽学会関西支部例会では、「ノスタルジーとしての「クラシック」――クラシック音楽とその失われた「巨匠」イメージについて」というご発表をしたりしていらっしゃるようです。

「ノスタルジーとしての「クラシック」」の症例のひとつとして岡田本を書評する、という、いかにも、メタでクールな若手中心のポピュラー音楽研究(暴れん坊(をかつて演じていた)増田聡くんが少し前の日本音楽学会でぶち上げたような)の文脈に、岡田本を回収する試みということでしょうか。

もしも「岡田暁生の音楽論におけるノスタルジー」という話にすれば、ひょっとするとある程度面白いのかなあとは思いますが、

でも、

なんだか出来レースのプロレスみたいな人選ですね。「反旗を翻して」数年前に旗揚げした新興団体の若頭が、「老舗団体のチャンプ」に果たし状を叩きつける、みたいなことでしょうか。

そんな座組みで観客は本当に熱狂するのか。

どうせ、リング上ではバトルを演出しても、そのあとの懇親会で、にこやかに談笑するのでしょう。「反旗を翻すこと」は、その振る舞いによって反作用的に「老舗のチャンプ」の権威を認定することになる一種の「媚び」である、というのは、言説力学のイロハ、ケンカを通じて分かり合うという集団への実にベタな仲間入りの通過儀礼なわけですが、そんな幼稚な手法が、関西の学会プロレスでは、いまだに有効なのでしょうか。

リング上のバトルに観客が熱狂する、という、あたかも「祝祭としての運動」を思わせる風土を仕組むことが、学会全国大会という場に期待されているのか。誰がそんなことを認めたのかは不明。

やっぱり、私には理解できない謎の約束事の上に成り立つ集会だとしか思えないのですが、

大学・学会というところに一生・毎日・24時間棲息していると、こういうことくらいしか娯楽がなくなってしまうのかもしれませんね。知られざる世界の生態を垣間見る思いです。

こんなのばっかり次々企画されて、興味のないDMが次から次へと送りつけられるような鬱陶しさを否定できませんが、そういう人達だからしょうがないのでしょうか。

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[さらにさらに追記]

別の言い方をすると、岡田さんの音楽書というのは、特にここ一年に量産されたものにその傾向が顕著ですが、観客席という特定の方向から見たときにだけ効果を発揮する舞台のハリボテ装置に似ているように思います。

(書物を生産・流通する業者のなかで彼が誉められたりするのは、相手のハリボテを誉めることで、こっちがハリボテを作ったときには大目にみてもらおう、というあまりみっとも良くない相互不可侵の協定みたいなものなのかも……。そしてそのような相互不可侵の「殻」に守られた者同士の会話を「優雅さ」と取り違える風土というのもありそうで、村上春樹文学というのは、作家本人がどうなのかは知りませんが、そんな風土のなかで好まれているような気もします。もちろんそのような「殻」のついた卵を投げても、壁が揺るがないのは、投げた本人も誰もがわかっているわけで……。閑話休題)

残念ながら私は、岡田暁生氏の書物が想定する観客層ではないらしく、だから薄っぺらだったり、突貫工事だったり、明らかなゴマカシだったりするところが丸見えで、読んでいて恥ずかしく思うことが多々あるのですが、

あれこれ誉められているので、著者が想定し、一定(以上?)の効果を発揮する読者層というのが、おそらく存在するのでしょう。辛うじて私に関心がもてることがあるとしたら、そのような想定読者とはどのような人々なのか、増田聡くんの本のタイトルをもじって言えば「その本の読者は誰か?」ということくらいでしょうか。

「ノスタルジーとしてクラシック音楽」というのは、ひょっとするとそのような、岡田劇場の観客席の特徴の一端を指し示してはいるのかもしれません。

でも、繰り返しになりますが、仮にそんな風なアクロバットを演じるつもりであるにしても、そのような曲芸の舞台として、「学会」という場がふさわしいのか。「学会」は、知の見世物小屋なのか。

学会というものは、「今話題のあの人が大活躍」というような「釣り」を用意してまで、「盛況であること」が運命づけられているのかどうか。そんなに大変なんだったら、規模を縮小するとかしたっていいのではないか。そういう疑問を持ちます。

そして今回、掟破りで不作法かもしれないと知りつつ、イベントが行われる前に、「事前」に延々とこうして文句を書いているわけですが、それはまさに、学会を「イベント化」しようとするかのような傾向が行きすぎているのではないかと思うからです。

今回、いきなり、趣旨説明も何もなく、当日のプログラムが会員に通知されました。そして中をのぞいてみたら、こういうものであったわけです。

「イベント」であれば、こんな風に、多少の不安を煽り立てつつ「驚き度数200%」のいきなり感を演出するのもアリでしょう。ちょうど、出演者の顔のドアップをドカンドカンと並べた6月の京大での「特別対談」がそうであったように。

でも、これは研究活動の場なのでしょう。何を目指し、どのような方法・計画で活動が行われようとしているのか、そして期待される成果とは何であるのか。そうした枠組みを明示したうえで進めなければ、たとえ何等かの結果が出たとしてもそれを「成果」として位置づけることができない。

よく知りませんが、学会というのは、常にそのような研究の立案から結果の評価までの一連のプロセスを作成・遂行するプロフェッショナルとして長年トレーニングされている人々の集団ではないのでしょうか。

なんだか職業倫理の放棄という感じがするのですが。でも今は「成果主義」の時代だから、計画とか趣旨とかが何であろうと、学会・大会の「観客動員数」が多ければ、そのことで特別なご祝儀が出るというような、学会運営というのはそのような「興行」形態に移行しつつあるのでしょうか?

もし、そうなんだったら。少しでも観客動員と大会参加費を稼ぎたいのだったら、

「今回は岡田暁生と人文研ご出演。本来ならば1万円のところを、今回は特別価格、参加費5千円でお届けします」(オオー!)

「しかも、なんと、今話題の新製品「音楽の聴き方」の書評をもれなくセットでおつけして、しかもお値段5千円に据え置き」(オオー!と客席からどよめき(笑))

という風になっても、やむなしなのかもしれませんが、世の中は、本当にそこまで来ているのか。そういうのこそ、かつて揶揄的に「大阪商売」と言われていたものではないのか。いつから京都人がこんな露骨な「大阪商売」に手を染めるようになったのか。

あるいは、実は昔から本物の大阪人はそんなアクドイことをしていたわけではなく、本当に影で糸を引いているのは京都人である、という、そんな「陰険な京都人」図式が今も繰り返されているということなのか。

(原理的・構造的には、シンポジウム企画から何から全部「公募」ということにして発案者に丸投げで、便乗だったり、自説のプロパガンダだったりの厚かましい人のやりたい放題になっているところが問題なのでしょう。

頭の回転の好さを、楽して効率よく業績を稼ぐ方向に特化して作動させられる程度には高学歴・高偏差値で、なおかつ、東大ほどダイレクトに知識人の社会的責任・倫理みたいなことを徹底してチェック・監視されない阪大の中途半端さ(音楽学講座が70年代後半に出来た頃からずっと病んでいるような)が、個人の性癖・趣味嗜好と研究を骨絡みにしてちゃんと切り分けないままなんとなくそれらしい「大義名分」を掲げる風土を生んで、同校出身者がそれなりの地位につき、なんとなく「子飼い」っぽい人を動員できるようになったこのタイミングで、悪く表に出ているような気もします。)