新聞社は、外部著者の寄稿をネットには乗せませんが、書評は各紙だいたいオンラインで読めるようですね。
- 12月6日 『肉体のアナーキズム』 黒ダライ児著(評・椹木野衣)http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20101206-OYT8T00839.htm
- 12月13日『戦後の音楽 芸術音楽のポリティクスとポエティクス』 長木誠司著(評・片山杜秀)http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20101213-OYT8T00385.htm
- 12月20日『20世紀を語る音楽 1、2』 アレックス・ロス著(評・片山杜秀)http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20101220-OYT8T00378.htm
讀賣新聞の書評欄では、年末立て続けに、「オレも歳を取ったなあ」と回顧モードに入りつつではないタイプの20世紀アートの本が紹介されていたようで。素晴らしいことです。
高齢化社会の御時世に、40歳や50歳で人生のまとめに入ろうとするのは滑稽である、という説を最近わたくしは勝手に唱えているのですが、
奇しくも、「新人類」という単語が、昨日のびわ湖声楽アンサンブル定演で、指揮をした1964年生まれの沼尻竜典氏の口から発せられておりました。
世間がとっくに忘れているこの単語を自らにかけられた呪いのように今も記憶している一群が今も棲息しているのだとしたら、ちょっと恐い感じもしてしまいますが……、
もし本当にそうした種族が今も命脈を保っているとすれば、彼らは「老い」を知らないに違いなく、
だとしたら、これまでの人生の半分くらいを「20世紀」に過ごしたオッサン、オバサンにこそが、後ろ向きではなく20世紀を語る言葉にヴィヴィッドに反応する可能性があるのかもしれない。
讀賣新聞はすごいところへ向けて紙面を作っているのだあなあ、と思ったのでした。
(「もういいよ」とウンザリする顔が周囲のあちこちに想像されるところでもあり、危うい感じがつきまとってもいるわけですが、どうする、どうなる?
「新人類」は、中学校で校内暴力の嵐を巻き起こしたり、大学時代にクリスマスのシティ・ホテルを占拠したり、唐突に非日常の祭りに興じてきた人種で、しかも、自己責任の縛りが内面化しているのか勝手に騒いで勝手にいなくなっちゃうのが常なので、火をつけたらとらえどころのない行動様式が随分とあちこちを掻き回すのではなかろうかと思うのですが。いいのか?)