「知ったかぶり」を見物する会

[付記:念のために先回りして申し添えますが、もし以下の文章が「フィクションであり、実在の人物とは関係ない」(ここに名前が示唆された人物が実在したり、ある時点である特定の場所にいて、所定の行動や発言があった、と実証・裏書きできはしない)ということにしておいたほうが諸々好都合なのであれば、そのように処理させていただくことに私は異を唱えるものではありませんし、以下の文章が事実であるか否かを問わず、公式見解としては「25日の講演会が成功裏に終了した」と記録されるであろうし、そうでなければかえって困る(以下の文章の面白みが半減してしまうので)と私は考えております。ポストモダンとゼロ年代を経た21世紀に、「事実」が単一であろうはずがなく、そのような前提で今も日本の「言説」が進行しているのは公然・周知のことなのでしょうから。]

学生時代に広島であった美学会でのバッハの蔵書に関する発表の思い出。

質疑応答で、小林義武先生から「文献表に○○が挙がっているが、読んでいればそのような結論にならないはずだが」との質問があり、発表者が立ち往生。「すみません、実はまだ読んでいませんでした」と認めるに至りました。現日本音楽学会会長は、知ったかぶりの愚(世間は甘いかもしれないけれど、見ている人はちゃんと見ている)を自らの失敗を通じてわたくしたちに教えてくれる捨て身のエヴァンジェリストなのでした。

とりあえず自分の知っていることを、文脈や状況を省みずにとにかく出力する、という行為は、結果的に、その人が「何を知らないか」ということを陰画のように映し出す。煙幕を取り去って、知らないことを知らないと認めるところから話がはじまるのだとしたら、25日の猛暑の午後にわたくしが見聞した3時間は、話がはじまることを無限に先送りしたい人達が要所をがっちり押さえることでああいう風になっていたと解釈すべきなのかもしれません。

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冒頭の1時間。端的に言って、通訳というかヒアリングができてないじゃん、というのは、あまりにも分かり易い公然の事態だったわけですが、

講演者から発せられる英語と、そのあとで「サマリー的な通訳」として傍らに立つ方から発せられる日本語(その日本語の発話が、スタッフを右往左往させつつマイクの音響設備を最良の状態に保つような努力を強いるに値するものであったかどうか、費用対効果をめぐる判断はひとまず保留したいと思いますし、最良最高の音響設備を備えることが学会会場の当然の条件であるというように「形」を優先するのはちょっと違うのではないかとも思うし、そんなに気になるなら事前にチェックしておけばいいのにと思うのですが(そういえば最近の「効果的なプレゼン」マニュアル等では、まず会場の機材をチェックしましょう、といった見栄え重視を徹底的に教え込むようですねえ))を照合すると、講演者が事前に配付されたドラフトから逸れたとたんに通訳者の日本語が迷走するという症状を正確に発症していたので、極めて具体的に「ヒアリング」の問題であると判断することのできる1時間でした。通訳者が、どの箇所を聴きとることができており、どの箇所をどのように聞き逃したか(たとえば「return」という言葉を聞き取ることはできても、それが「return to the ...」と続く先が何であったかということを聞き損ねている、すなわち、いくつかの聴きとることのできた単語断片をつなぎ合わせた自由作文の日本語が「サマリー」として発話されており、英語の「文」を聞くことはできていないらしい、等々)ということを発話の現場で逐次分析することは、語学力を鍛えようと思っている院生さんたちへの、格好の英語教材だったかもしれませんね。

通訳者様のこれまでのご研究で、私が一番印象に残っているのは、街中にかすかなクリック音を発する装置をこっそり仕込むというようなサウンド・アートの紹介です。道行く人が、そのクリック音に気付いた瞬間に、あたりをとりまく音の環境が異化され、一変するのだ、というようなお話だったと記憶しています。このお話自体は本当に魅力的だと思っておりますが、「return」という単語への「気づき」で脳内がリセットされて、その続きをキャッチできなくなるのは、通訳としてはマズイように思いました。通訳におけるシュールレアリズム。

門主様が主宰する法要では周囲が細心の段取りを事前に準備せねばならないように、この方をお招きする場では、「想定外の事態」は間違っても一切起きてはならないらしい(何か起きると、こっちが粗相をしたことにされてしまいかねないから)という教訓を一同が深く心に刻んだひとときでした。

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最後の1時間弱は日本の吹奏楽に関する発表で、アマチュア奏者の「育成」が産業として整備されている現状をクリアに見せてくれる内容でした。

フロアから「自衛隊音楽隊の位置づけがなっとらん」との発言が飛び、その質問者は、ここにはこういう部隊があり、あそこにはああいう部隊がある……と列挙しておりましたが、はたして質問者様は、レジュメにも名前が挙がっている大阪市音楽団がどういう経緯で陸軍第四師団から今日の形態になったのか、ご存じだったのかどうか。あるいは、発表のなかでサンプルとして紹介された作品の作曲者にも、自衛隊音楽隊からの委嘱で書いた作品があること、発表者を含む音楽大学の管楽器卒業生にとって、警察音楽隊や自衛隊音楽隊がごく普通の就職先のひとつであること等々をご存じなのかどうか。

吹奏楽に軍楽隊の流れを組む要素があることは大前提で、その上に別のレイヤーとして「産業」が構築されている現状を繊細な配慮とともに音楽学のレポートとして言語化しようというのが今回の発表なのに、なにやら、創作和食の割烹料理屋へワンカップ大関を持ち込むように野蛮な演説だなあ、と思ったのでした。

軍楽隊の系譜が「ある」と叫ぶだけで済む段階ではもはやなくなっていることは、発表を通じてほぼ明らかだし、軍楽隊のレイヤーと、アマチュア育成産業のレイヤーの関係を具体的に検討するのは、確かに先の行程としてなされるべきではあるけれど、じゃあ、具体的にどうすればいいのか? このテーマの「現在」を扱うとするならば、と具体的に考えていくと様々に繊細な手順が必要だと思われるのだが、キミはそのことを少しでも想像したことがあるのか? 例会委員が、率先して、見通しもなにもない放言で集まりを掻き回すのはすごい光景だなあ、と思うし、悪く邪推すれば、「軍楽隊系ブラスバンドの本を書いた細川周平さんを無視するのか! ちゃんと仁義を切ってから研究をやらんかい、オラ」と暗に恫喝しているように見えなくもない光景でした。お前は地回りのヤクザか? そんなことばっかりしているから、日本の音楽学の論文が多様性を欠く同型の金太郎飴みたいなものになってしまうわけで……。

(妙に張りのある声色は、発表者に問いかける語調としては大げさすぎて、フロアにいた、輪島裕介先生をはじめとする「お仲間」を意識したパフォーマンスのように思われたのでした。これから研究者になろうと思う学生の皆さまにおかれましては、こういう風に立ち回る人が実在することを知っておいて損はないと思いますが、でも、考えてみれば、それはむしろ、世間の常識に属する事柄でしょうか(笑)。)

自衛隊員の皆さまが実際にはどういう方々で、どのような活動をしていらっしゃるかということについては、おそらく、発表者のほうがはるかに具体的に陰影に富む情報と経験を持っているに違いないし、私は、そのつもりで発表を拝聴させていただいていたのですが、どうやら、彼はそうではなかったようで……。

このようにして、音楽学はプチボスを再生産しつづけるということなのでしょう。