グリーグさんの本が出た(アーリング・ダール『グリーグその生涯と音楽』)

グリーグ その生涯と音楽

グリーグ その生涯と音楽

阪大の伊東信宏先生のところで小林ひかりさんがグリーグを研究しているのは、バルトークが最晩年のグリーグの「スロッテル」を高く評価していたこともあって、誰かにノルウェーのことをやって欲しかったのだと思いますが……、

大阪音大作曲・ソルフェージュの高橋徹先生によると、「小狂詩曲」の冒頭のティンパニーはグリーグのピアノ協奏曲のアイデアを借りたのだと、大栗裕は授業で言っていたそうです。

大栗裕の遺品のオープンリール・テープには、カラヤン&ベルリン・フィルの「十字軍のシグール」のエア・チェック音源があったりして……、本家「ハンガリーのバルトーク」だけでなく、「東洋のバルトーク」のほうも、グリーグに無関心ではなかったようです。(大栗裕が「スロッテル」を知っていたか、定かではないですが……。)

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ライプチヒ留学中にシューマンのピアノ協奏曲を未亡人クララが弾くのを聴いたグリーグが、20世紀のはじめまで生きて、バルトークやグレインジャーに刺激を与えるような民俗音楽のピアノ編曲を残したというのは、確かに興味深いですね。

1910年頃のパリで、グリーグの「スロッテル」が若い音楽家の間で話題になっていた、というエピソードが紹介されていて、1911年に「ゴイエスカス」を作曲したピアニスト兼作曲家のグラナドスが「スペインのグリーグ」と呼ばれた背景はこれか、と思いました。

そして新劇のヒーロー、イプセンとの仕事があったり、晩年には各国から指揮者として招聘され、政治的な発言が注目される「名士・文化人」という感じになって、グリーグの生涯は結構華やかなんですよね。

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佐藤卓己先生によると、1980年代の歴史学科の学生の間では川北稔訳のイマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界システム』がよく読まれていて、

ある意味で皮肉なことだが、「中心・半周辺・周辺」の空間把握で地球全体を視野におさめたウォーラーステインの全体史に魅了された学生の多くは、「半周辺」を意識する歴史家となった。つまり、一九八〇年代以後の西洋史研究で英・独・仏など旧列強を研究する歴史家は極端に減少してしまった。[……]同期の修士一回生はビザンツ史、修士二回生の先輩四人はポーランド史、ポルトガル史、シュトラスブルク宗教改革史[ひとまずはドイツ史だけれども現在はフランスのシュトラスブールである街の歴史]、大英帝国史[ブリテン島だけでなく新大陸、アフリカからインドへ及ぶような]だった。(『歴史学』、37頁)

ということなのだそうです。

歴史学 (ヒューマニティーズ)

歴史学 (ヒューマニティーズ)

ウォーラーステインは、1960年に生まれて一期校・二期校制度から共通一次へ移行した直後に大学へ入った世代に、「日本は列強じゃないよ!」(ジャパン・アズ・ナンバーワンとか、日本はNOと言える、とか、そういう日本人論は嘘ですから)と教えて、彼等を、旧帝大の往年の大先生方伝来と「列強へ追いつき追い越せ」幻想の呪縛から解放したのでしょう。そして肩の荷を下ろした大学生は、「半周辺」の知識人とだったら普通に話ができそうだ、ということになったのかもしれませんね。

京都で生まれ育った伊東信宏先生は、広島出身で京大に学んだ佐藤卓己先生と同じ1960年生まれですが、卒業論文でシベリウスを扱って、修士論文からバルトーク。そして伊東先生が率いる阪大音楽学は、今やヨーロッパの「半周辺」音楽の拠点みたいな感じがあります。

(つまり現在の阪大音楽学は、別にナショナリズムやエスニシティ、フォークロアといった研究テーマによって結束しているのではなく、身の程をわきまえて賢く生き抜く人たちのサークルなのだと考えたほうがわかりやすい。だから、大阪人が身の程知らずに盛り上がる戦後関西楽壇史などには見向きもしない。そういう「身の程知らず」は、待兼山から見下ろされる低地の愚か者であるわけです(涙)。

伊東先生がアドヴァイザーをしているザ・フェニックスホールは京都の人がマネージャーで、基本的には京都音楽人の大阪出張所です。あの交差点にそびえる高い塔は、地上に蠢く大阪人を見下ろす文化装置と言ってよい。

輪島裕介さんが来たので、伊東先生的には、きっとますますこの傾向が強まるのでしょうし、ひょっとすると、輪島さんが抜擢されたのも、ああ見えて、身の程知らずに暴れる人間ではなく、御しやすい、という判断があったのかもしれませんね……。)

このプライドと弱気が絶妙にバランスしたところに「身の程」を設定する気風が、訳者あとがきで原著者を「ダールさん」と、さん付けで表記する小林さんへ受け継がれているのかなあ、という気がします。

(いきなりの「さん付け」は、ちょっとびっくりしましたが……。)