ヒューリスティック

って、そういう意味だったのか。結果から、なんでこうなるんだろう、と原因や前提を推論することなんですね。

普通にやりすぎていて、それが演繹とも帰納とも違っていることに気づいてませんでしたが、そういえば、演繹か、さもなければ帰納か、という感じで、失敗するまでひたすら前に進む人っていますね。

この差はどこから来るのだろう、と考えて、ひょっとしたら、前衛・アヴァンギャルドを信じるか、信じないか、みたいなことだったりするのだろうか、と思いついた。

あと、パソコンを触っていると、わからないなりに、きっとこれが不具合の原因だろう、と当たりをつけていかないとどうしようもない場面が日常的にある(あった)ような気がする。

……と、このように結果の裏側をあれこれ想像するこの文章の進み具合自体が、既にヒューリスティックの病の虜になっているようだが、推論の進め方として、いわゆる構築主義とも相性はよさそうですね。

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推論に「好み」を言っても仕方がないかもしれないけれど、帰納は、そこで終わってしまったら、なんだか迷信っぽい感じになりそうで好きじゃない。「今日晴れたから、明日も晴れだろう」みたいな……。もちろん、そこから出発するしかないにしても。

(知覚の自動化、とか言って、音楽がもたらす情動を説明するときに、その種の予測が音楽聴のベースにあって、予測が裏切られる瞬間が「表現」になる、というような説明法がよくあったけれども、この説明は単純すぎて、これでは説明しつくせないことが多すぎるように思う。ヒューリスティックス/アプダクションが入ってこないと、音楽聴の心理学的なモデルが学習能力・フィードバックのないポンコツ機械みたいな感じになって、認知の問題は面白く広がらなさそうですよね。)

演繹は、それで事が済むなら、まことにめでたいことであるなあ、というきれい事な感じがする。美学のかなり懐かしいタイプの論の進め方を思い出す。

そしてこんな風に、なんでも具体例(とりわけ音楽の)になぞらえないと気が済まないわたくしは、アナロジーを偏愛していると我ながら思う。

(しかし、なんなんだ、この文章は。)

音楽でも、指揮者や演出家は、演繹的なアプローチの人、帰納的な人、アナロジー連発の人、ヒューリスティックな人、という分類ができるかもしらん、と思ったりする。