デスピーナとは何者か?

コジはあと1回を残すのみで、意見が揃ってきたようですが、正直、あの舞台をみて「遊び」「おぶざけ」を肯定している、と思った人がいるのにちょっと驚いた。

たぶん、(とくに関東とか他所からいらっしゃった方々などで)お客さんがいちいち受けていたのを、舞台上がふざけていた結果であると勘違いしたからではないか。あれは、最初っから笑いたくて来ていた人たちがちょっとでもきっかけがあれば笑う状態になっていたのが半分で、あとの半分は、まじめに筋を追いかけて、こらシャレにならんで、ということで、笑って混ぜ返すくらいしか反応しようがなかった、ということだと思う。

舞台上は、コジでは珍しいくらいマジというかガチというかベタだったと思うんですよ。歌もオケも。

コジという作品がマジ、ガチ、ベタになっている状態というのは、相当おかしいじゃないですか。なんでこの話をこんなにマジ、ガチ、ベタにやり通すことができるのか、そこを考えないといかんのとちゃうか、と私は思ったんですけどね。

「真面目なコジ、などという、ありえないことが起きてしまうのを私は断固認めない」「それは、ふざけているのに違いない」と決めつけちゃうのは、思考停止だと思うんですよねえ……。

(アジア組に関しては、ひょっとするといまいちだった可能性を否定できないけれど……。[→追記:どうやら、アジア組と欧米組で、相当印象が違う公演になっているらしい。そして、立場上、歌手の方々を批判することができない事情のある人は演出に文句をつける。相手がガイジンなら、文句を言っても角が立たないですから……。])

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まず、アルフォンソとデスピーナがしばしば狂言回しと言われるわけですが、アルフォンソは、岡田暁生が一生懸命自著で書いているように、「ロココの闇」を背負った恐るべき懐疑主義者ですよね。そう考えると、楽しいおふざけじゃなくマジメなキャラになり得るのは、比較的納得しやすい。

問題はデスピーナだと思うんですね。

あれが、ご主人様とその恋人たちを陥れようとする遊び、ゲームじゃないとしたら、どういう可能性があるか。

啓蒙されていない庶民、と、前のエントリーでは柔らかく書きましたが、ざっくり突き放した言い方をすると、わたくし、彼女は「頭が弱い子」なんだと思うんですわ。

恋愛とか貞操観念とか、そのあたりをうまくハンドリングすることができない風に生きちゃってる子が、アルフォンソという懐疑主義者と組み合わさると、周りをとんでもないところへ引っ張っていってしまう。

これはつまり、野島伸司のドラマみたいなものだと思うんですよ。

で、ダ・ポンテがもってきたその台本を、モーツァルトは毒を食らうように自らも面白がって作曲した。

一方、ベートーヴェンは、堅物だからそれを嫌ったのではなくて、モーツァルトの死の直後からずっと同じウィーンで暮らしている人ですから、この街にはアルフォンソみたいな猛烈に頭の良い「生きる暗闇」が実在するし、一方で、デスピーナみたいな「頭の弱い娘」もいる、ということを嫌と言うほどわかっていたんじゃないか。わかりすぎるくらいにそのニュアンスがよくわかるから、「もう、こういうのはやめにしようぜ」「オレはもうこんな話はたくさんだ」と思っていたんじゃないか。

そして今回は、コジをおふざけとかごまかしとか抜きに、最初から順番にめちゃめちゃマジメにやった結果、そのあたりの(普通の「賢い上演」だったらぼかしてしまうところまでもが)はっきり見えちゃった、ということではないかと、私は理解しております。

演出家が、ドラマの結末、結局誰が誰とくっつくのが適切か、ということに関心がない、とプログラムに書いているのは、まるで科学の実験のように因果の理詰めでスワッピングが実現してしまう過程を見せたいのであって、それをどう収拾しようが、それは私にとっては副次的なことでしかない、という意味だと思う。

でも、それは、「恋愛なんてゲームなんだから、過ぎたことの責任を取れと言うのは野暮だ」ということでもないと思う。どういうことか?

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もし、誰かやる気のある脚本家がいたら、デスピーナを主人公とするコジのスピンオフを作ったらいいと思うんですよ。

この話はナポリが舞台でしょう?

だったら、例えばデスピーナはナポリ近郊の畜産を営む農家の娘で、代々、この家の男たちは「カストラートを作る技術」を秘かに伝承している。彼女がお嬢様の家に奉公に上がる程度の身なりと作法を身につけたのは、この裏の商売で家がそれなりに潤っていたからだ、とか、そういう設定にしてはどうか。

(実は、ファリネリを処置したのはデスピーナのおじいさんだった。父の兄弟たちは、成功したファリネリの援助で学校へ通うことができたんだ、とか、ね。)

しかも、彼女の村の幼なじみのひとりは、貧しい家で、親はこれ以上子供を養う余裕がなく、聖歌隊に入れようと考えた。噂では、あの親父さんに頼むと、子供が「神の声」を授かるというから、ひとつ、お願いしようということになった。……ところが、どうやらホルモンのバランスを壊したのか、音楽の才能がなかったのか、その幼なじみは歌のほうでは芽が出ず、妙に甲高い声なんだけれども、異常にブクブクと太ってしまい、村では気色の悪い化け物のように疎んじられてしまっている……。村中に事情は知れ渡っているので、そんな男(と言って良いのか)と結婚する女はいないが、絶対に子供が出来ない身体だということで、それなりの使い道(?)があるとかないとか……。

デスピーナは、そんなこんなを子供の頃から日常的にみていて、彼女の「男とは何か、女とは何か」という理解は、そうした自らの幼少期の体験と切り離すことができない。

とか、そんな話はどうでしょう。

そしてこんな物語を背負ったデスピーナがお屋敷のなかで巻き起こした騒動が「コジ」なのだ、ということでどうか?

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ミロス・フォアマンに、そんな設定のデスピーナ物語を撮らせたら、「アマデウス」と「ゴヤ」に続くとんでもない映画が出来そうな気がするのだけれど……。

まあ、そこまで極端にグロテスクにしないとしても、デスピーナは、あのドラマの登場人物のなかで、現代の平均的なオペラの観客から一番遠いところにいる人、一番共感が難しいものを背負った存在だという風に位置づけるのは、物語の成り行きや設定から考えると、十分あり得ることだと思うんですよね。

そしてそういうエゲツナイ話を、宮廷劇場で上演できる音楽言語で詳細に記述したところがあの作品の意義だ。音楽が単体として美しいのではなく、エゲツナイ話をああいう音楽にしたのが凄いのであって、エゲツナさと美しさは切り離すことができない。実際、1幕の後半あたりから、モーツァルトの音楽はシャレにならん感じの妖しい気分になっていくじゃないですか。

こういうドラマから美しさだけを取り出したいと欲望する偽善を、人は「きれいごと」と言う。