放送終了:よみがえる「ラジオ歌謡」とその時代〜大阪発・60年ぶりの復活演奏〜

上田早苗アナウンサーに公共の電波で自分の名前を読み上げていただいて感激した……と茶化して終わりにしようかと思っていたのですが(笑)、

(上田アナって、大河ドラマ「新選組!」の頃、昼の番組の司会をして、三谷幸喜や山本耕二と楽しくトークをしていた、あの人じゃないか、とミーハーにはしゃいでしまいまして……すみません)

2時間10分の丁寧に作られた番組でしたね。西川プロデューサー、本当にお疲れ様でした、というのが率直な感想です。

日本の作曲家の作品を発掘して上演にこぎつけるには譜面(パート譜など)の調達が大変で、そのことを、番組のなかで情報として出してくださったのも、意味のあることだったのではないでしょうか。

(なお、大栗裕の作品のデジタル化は、話の流れ上「白石を中心に……」となっておりましたが、基本的に私は周りでワイワイ言っているだけで、大学(大阪音大付属図書館)の業務として、スタッフの皆さんが進めてくださっております。)

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「日本の春だよ、よく見てござれ」と、ラジオ歌謡に佐藤春夫がこんな詩を書いていたのも興味深く、その他、情報満載でしたが(ジープで滑走する米兵さん相手に、ござれ、って……)、

大栗裕の「夫婦善哉」と「待てど暮らせど物語」は、これだけやっていただいたら、上手くいっているところ、ちょっと弱いところ、ポイントは伝わるのではないかと思いました。いかがでしたでしょうか?

でも、「待てど暮らせど」のあとに続けて三善晃の「金の魚の話」を聴くと、これは素晴らしすぎる音楽、これが本当に「書ける作曲家」というもので、大栗裕を同じ土俵で論評したら、そりゃ「音楽が貧しい」ということになるよなあ、と思いました。

音楽劇といっても色々あって、「音楽」とひとくくりにするのは、やめておいたほうがいい、ということですね。大栗裕は、三善晃とは別のところに隔離しておいて、別の文脈・構えで眺めるものである、ということで。

大栗裕は脇において、「金の魚の話」はシンプルな書法だけれども洗練されていて、遊び心もあり、お手本のような完成度。

(1) 金の魚が助けてくれたお礼におじいさんにプレゼント(女声合唱) → (2) 家に戻ったおじいさんは欲張りばあさんに怒られる(ファゴット) → (3) おじいさんは海に引き返して金の魚にワンランク上のリクエスト(バリトン) → (1b) 金の魚から新しいプレゼント(魚の口調は優しいが同時に海が少し荒れる) → (2b) 家に戻ったおじいさんはまたまた欲張りばあさんに怒られる(以下同様)

というループ構造があって、音楽は同じパターンを反復しながら、最後の臨界点の破局へ向かって少しずつ、時に大胆に変化して、いかにも作曲家の繊細な仕上げが生きるお話を選んでいると思いました。金色に光る魚、海、老婆というイメージも明確で、聴き手にも、物語/音楽がどういうルールで進行しているのか、すぐにわかりますし。

この作品の譜面を発見して復刻できたのは、確かに歴史的な意義のあることだと思いました。

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それから、三善晃に若杉弘を通じて「金の魚の話」を委嘱したのは大阪NHKの放送合唱団で、逆に言うと、BKの合唱団が、こういうのを委嘱して演奏できる実力のあるプロだったということでもあろうかと思います。

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最後の宮原禎次の「大大阪」。第2楽章で天神祭のだんじり(ちゃんちき)と獅子舞囃子が出てきて、しかも獅子舞囃子は、のちの大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」よりもモダンにデフォルメされていて、ああこれが本物の昭和モダニズムだな、と思いました。セザンヌやキュビズムの影響を受けて描かれた大阪・中之島の風景画、という感じ。(実際に同時代にそういう画家が大阪にもいたはずですし。)

大大阪イメージ―増殖するマンモス/モダン都市の幻像

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映画「大大阪」観光の世界‐昭和12年のモダン都市‐ (大阪大学総合学術博物館叢書4)

映画「大大阪」観光の世界‐昭和12年のモダン都市‐ (大阪大学総合学術博物館叢書4)

番組は橋爪節也さんまでご登場で、ゲストも充実でしたね。

同じ曲の第3楽章は、大阪の女の子の盆歌「おんごく」をアカペラでほぼフルバージョン歌う、というもの。大栗裕もヴァイオリン協奏曲の第2楽章で「おんごく」を用いていますが、これは長大で、曲調も途中で何度か変化する不思議なわらべうたなんですよね。

大栗裕 : 大阪俗謡による幻想曲、ヴァイオリン協奏曲 他

大栗裕 : 大阪俗謡による幻想曲、ヴァイオリン協奏曲 他

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ところで、関西歌劇団が「夫婦善哉」を初演したときの蝶子役は、樋本栄さんでした。

東京藝大を卒業して大阪に戻ってきて数年の若かりし頃で、当時の写真をみると、細身のきりっとした美人さん。他には、「赤い陣羽織」と二本立てで初演された「白狐の湯」で狐にたぶらかされる男の子役や、「マンドリンを弾く男」のヒロインなどをやっています。

武智鉄二が最初に演出した「お蝶夫人」では、もちろん、蝶々さんを演っていました。

(おそらく武智鉄二は、創作歌劇で樋本さんを看板女優的に配役していたのだと思います。松竹から若手を借りてやっていた、かつての「武智歌舞伎」で言えば、扇雀に相当する位置づけ、ということでしょうか。

樋本さんは関西歌劇団のプリマということで朝比奈・大フィルでは第九などの録音も出ていますし、最近、マーラーの4番の朝日放送音源もリリースされましたね。)

朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団、樋本栄(ソプラノ独唱)

朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団、樋本栄(ソプラノ独唱)

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で、ふと思ったのですが、こういう風に「色恋」の要素をはっきり意識したオペラ制作は、当時の日本では結構、珍しかったのではないかと思うのですが、どうでしょう?

もちろん「カルメン」などは浅草オペラ以来の定番で、ペラゴロの男子諸君は劇団の若い女性を観に行ったのだと言われていますから、赤毛ものオペラは色恋沙汰の芝居だというのは、戦後のこの頃にはもう常識だったと思いますが、日本の作曲家の創作オペラで、この種のものはあったのでしょうか?

山田耕筰「黒船」のお吉と領事は日米友好(笑)。首脳同士ががっちり握手する、いわば「友愛」だと思います。ワーグナー派の考える国民オペラは色恋と一線を画していたということでしょうか。(日本はゲイシャ・ガールの国という偏見を助長したくない思いもあったのでしょうし。)

團伊玖磨の「夕鶴」も、鶴の化身ですし、元の芝居は山本安英で、のちにプッチーニ風だと悪口は言われましたが、トスカが歌に生き恋に生きるようなお芝居ではない。木下順二のプロットでは、つうと与ひょうの関係が自然or理想(恩を返す互酬性)と現実or人間の悪(反物を売り払う貨幣経済)の寓意のようになっていますし、なんといっても民話調……。

「修禅寺物語」は、“新しい恋”という台詞で知られる大正期の新歌舞伎ですが、清水脩の作曲は、「ペレアス」がお手本で、桂と頼家の恋を高らかに歌い上げるものにはなっていない(と思う)。ストイックな仕上がりになっているのは、作曲者が歌舞伎(女優のいない野郎だけでやる演劇)との対決を意識していたのも一因でしょうか。

そのあとの石桁眞禮生の「卒塔婆小町」も、元は老女ものの謡曲で、現代に翻案したのは三島由紀夫。鹿鳴館時代へタイムスリップして舞台に華はありますが……。

長木誠司さんが昭和30年代の日本の創作オペラに指摘する本格的なアリアやアンサンブル(愛のデュエットを含む)の欠如は、当時のオペラが「色恋抜き」の、要するにアンナ・ネトレプコ的な存在を必要としない芝居で、いずれも誰かが恋に狂ってとっておきの声色で歌い上げる必要のない物語だったのが一因、そしてそのような物語だけが題材に選ばれたのは何故かというのが問題では、と思ったのですが、どうでしょう。

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一方、武智鉄二はエロスのある芝居をやりたい人で、谷崎潤一郎に私淑していて、当初、関西歌劇団で「お国と五平」をやりたい意向があったようですし(もし実現していたら、樋本栄の女主人に、五平役のテノールがトリスタンのようにひざまづくことになったのでしょうか)、「白狐の湯」では、当初、歌手本人に入浴シーンをやらせたかったらしい、とも聞きます(実際には、ストリップダンサーを吹き替えで起用することになったのですが)。

(また、1955年6月の段階では、「三島由紀夫が「潮騒」を自らオペラ台本化している」との武智の発言があり、当初は「卒塔婆小町」ではなく、「潮騒」のオペラ化計画があったようです。もし実現していたら、石桁眞禮生の音楽で、日本に十二音技法による恋愛オペラが誕生することになったのに……。)

1956年に朝比奈隆がベルリンへ行って関西でシンフォニー指揮者としての地盤を固めてしまった一方、三島由紀夫オペラは「卒塔婆小町」へ変更になり、「お蝶夫人」東京公演は松竹と武智鉄二の対立で中止。ジャーナリズムでは活動範囲を猛烈な勢いで広げていく武智鉄二へのバッシングがあり、このあたりで潮目が変わってしまったのかな、という気はしますが、ともあれ、

エロスを肯定した点でも、武智鉄二は当時の創作オペラ運動のなかで特異な存在だったのかな、と思います。60年代から映画でエロスを追い求める前に、オペラ演出でもエロチシズムの可能性を考えていた、ということでしょうか。

おそらく山田耕筰の五七調に日本歌曲唱法で色恋沙汰は無理だと思いますし、日本の戦後の歌劇は、いつどのようにして色恋にアプローチしたのか、しなかったのか、という観点から見直す可能性は、ありうるかもしれませんね。それは、「戦後の音楽」を一度ジェンダー論のフィルターにかけてみることにもつながるかもしれませんし。

(大栗裕の「夫婦善哉」の大阪言葉は、おそらく、ネイティヴな言葉で作曲することによって着飾ることなく素肌をさらして、私的領域の襞へ分け入る、ということでもあったように思います。ただ、濡れ場になったり、情を交わす場面になると、番組でご確認いただいた幕切れもそうでしたが、オリジナルの作曲から、義太夫・浄瑠璃へ移行してしまいます。これを、「色恋を書けていない」と見るか、上方流の情の世界へオペラを引き込む彼なりの解決案だったと見るか、が論点になるのかもしれませんね。)

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でも、さらに考えていくと、実は、当時多くの作曲家が取り組んでいた映画の世界は、創作オペラ運動と違って色恋沙汰のオンパレード。時代劇の遊郭もの、現代の娼婦ものから、戦後民主主義の青春ものや、太陽族まで、バラエティに富んでいます。

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「夜の女たち」の大澤壽人や、「赤線地帯」の黛敏郎みたいに、娼婦たちに変調音や電子音を当ててしまう作曲家たちもいますが、「A. I.」という艶めかしいミュージック・コンクレートを制作した武満徹の「狂った果実」はキュィーンとスチールギターが悶えます。

狂った果実 [DVD]

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私見では、「羅生門」に黒澤明の強い要望で入れることになったと言われ、黒澤の無邪気なクラシック音楽好きが作曲家を困らせていた一例とされる早坂文雄のエキゾチックなボレロは、そもそもラヴェルのネタ元バレエ音楽が、(しばしば名曲解説で言われるようなオーケストレーションのデモというキレイゴトで済むものではなく)妖艶なイダ・ルビンステインのための曲で、観客の視線を彼女一点に集中させるための扇情的なオスティナートだったと思われ(事実ずっとあとにこの曲を使った映画「愛と哀しみのボレロ」もジョルジュ・ドンに視線を釘づけにするじゃないですか!)、早坂の音楽も、お白州にダラリと座る京マチ子を「凝視」する状況を生み出す気がします。

羅生門 デジタル完全版 [DVD]

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映画の色恋に日本の作曲家たちがどう対処したかということを、日本の創作オペラ運動と対比すると、映画においても同じようにストイックだったり、斜に構えている人、映画でも芸術音楽でもエロい人、ケース・バイ・ケースである人、あるいはそういう一方的男目線でない世界へ連れて行ってくれる人など、立体的に見えてくるものがあるのではないかと思うのです。はたして、日本の男性作曲家たちの性愛をめぐる意識はジェンダー論に耐えうるか、それとも「現代音楽」は男子の馴れ合いだったのか?

シネマの快楽 (河出文庫)

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武満徹と蓮實重彦が映画を語ればさぞハイブロウかと思いきや、西部劇映画でチャイコフスキーが朗々と響くところで馬上の女優さんのバストが……とか、俗っぽい話で盛り上がっていたりもする。いいのか。

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レコード歌謡と一線を画した健全な流行歌がスローガンの「ラジオ歌謡」にふさわしくない話題へ逸れてしまいましたが……、要は、ソプラノの石橋栄実さんも熱演だったのではないか、ということです(なんじゃそりゃ)。

皆様、お疲れ様でした。

(ちなみに石橋栄実さんというのは、大阪音大ザ・カレッジオペラハウスの芥川也寸志「広島のオルフェ」で井原秀人さん演じるケロイドの主人公を癒す看護婦役をやったり、松村禎三「沈黙」のオハルを演じた人です。かつて市販されていたCDはもう入手が難しいのでしょうか。)