日本的スポーツと日本的吹奏楽(有山輝雄『甲子園野球と日本人』、井上俊『武道の誕生』)

相撲で言えばポスドクは序二段、専任は関取?!

https://twitter.com/smasuda/status/308897814795132928

何をおっしゃいますやら(笑)。関取は「転落→引退→廃業」のリスクがあるんすよ。停年までほぼ身分と生活が保証されている大学専任教員は、相撲協会親方株の取得でしょう。現役を続けながら部屋の後継者として早々と親方株を持たされる人もいれば、「親方株取得=引退」で、自分の部屋を持つことなく巡業部とかの雑務に回る人もいる悲喜こもごもを考えると、さらにしっくり来ますがな。いつまでも選手気分の抜けない協会役員は若手から煙たがられまっせ。「オッサン、そこ邪魔、どいて、どいて」

と何人もの業界関係者が突っ込んだであろう今日この頃(注:私自身は組織の管理部門を「盛りを過ぎた役立たず」とは決して思っていませんよ、そんな近視眼では以下の話が成り立たなくなる、経緯はどうあれせっかく金と地位と安定を手にしたのならば応分の誇りをもって堂々と「お仕事」をしていただきたい、内田樹のように!ヒネクレは我々貧乏人が供給しますから(笑))、それはともかく話が変わって、日本の武道・スポーツの文化史・社会史の概説書を読みながら、ニッポンの吹奏楽を読み解くのに使えそうだなあと思っております。

甲子園野球と日本人―メディアのつくったイベント (歴史文化ライブラリー)

甲子園野球と日本人―メディアのつくったイベント (歴史文化ライブラリー)

これがひと頃はやった、メディアイベントとしての甲子園、という話の基本図書、という理解であってますでしょうか。

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日本の吹奏楽の「体育会体質」に旧日本陸軍をイメージする、という論調がひと頃ありましたが、経験上、案外これはうまくいかない。

学校吹奏楽は、同じく学校という場に根づいた近代スポーツ(野球が代表みたい)と比較するほうが共通点が多そうですし、吹奏楽の「体育会体質」は、日本のスポーツが「武道的」にローカライズされていく過程と類比的にとらえるのがよさそうな印象を持ちました。

武道の誕生 (歴史文化ライブラリー)

武道の誕生 (歴史文化ライブラリー)

そして井上俊先生によると、「武道」(講道館柔道がリードしたような)は、実は既に武術という実践的な戦闘技術を「近代化/スポーツ化」したものであるようですね。

日本のスポーツの「武道化」はスポーツのダイレクトな武士道化ではなさそうです。「武士道」との間にワンクッションあるのがポイントみたい。井上先生、冴えています。

(また井上先生は、昭和全体主義ですべてのスポーツが「武道」とみなされていく過程を、「伝統の発明」ならぬ「伝統の再発明」と呼ぶんですね。伝統の「発明」は一回やれば終わりではなく、その後も状況に応じてメンテナンスされつづける。ある一点を「誕生日」と決めつけることのできないプロセスだということですね。この柔軟な視線もいい感じです。「つくられた説」を本書いて一発当てるための手軽な特効薬と思っている早漏なすべての人に、この柔らかな持続力を見習っていただきたい(笑)。)

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こういう話を読んでいると、そういえば、吹奏楽の「体育会体質」も、戦時中より前がありますし、そうかといって、いわゆる「封建的」というダイレクトな前近代の温存もしくは蘇りではなく、間に軍楽隊という「近代化」された集団・組織がはさまっており、その上考えてみれば、集団・組織それ自体の問題というより、集団・組織が装填する「精神」「道」、文化の問題ですよね。

有山先生の甲子園本に戻って、どうして日本では学校がスポーツを育てる場になったのか、の説明にホイジンガを持ってくるのもわかりやすかったです。「下流」化して若手が新書をガツガツ乱発する前の、社会科学がアタマ良かった時代の爽やかな語り口、とか思ってしまいました。

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

既に出ていてもおかしくない気がしたのですが、「日本的吹奏楽の誕生」の定番・決定版を誰かがきれいにまとめておくと、何かと便利ではないでしょうか。