オーケストラのいわゆる「ミストーン」問題を本気で考えてみる

[4/26 「ミスをするのはかっこ悪い」という素朴な感情がありうることを踏まえて、何カ所かに加筆。4/24 真ん中あたりにやや長めに追記。これで少しは「むきだし」な話になっただろうか……。]

愛のむきだし [DVD]

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政治的な意図をもった挑発行為に正面から向かっていくのはしばしばやぶ蛇である、というのがオトナの分別だとは思いますが、主人公のアイデンティティが文字通り崩壊して、その末に……という先日DVDで観た映画「愛のむきだし」に敬意を表して、オーケストラの「ミストーン」とは何なのか、まじめに考えて私なりの意見をまとめておきます。

雅哉氏は、軽いノリのふりして、この件については結構マジっぽいので。

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「人前でミスったらかっこ悪い」という素朴な感情は誰しも持つと思いますが、これを、「ミスはプロにあるまじきことである」とか「査定の対象にする」という風に、いわば明文化・成文法化すると、いやいやちょっと待て、ということになる、ということであろうかと思います。

「人前でミスったらかっこ悪い」というのはどういう感情なのか、という方面も気になりますが、今回はまじめですから、「ミスはプロにあるまじきことである」とか「査定の対象にする」というハードな議論のほうにこだわって、そんなハードなコーディングが可能なのかどうか、言葉の定義からがっつり考えてみます。

「ミストーン」とは何なのでしょう?

さしあたり、

「楽譜に指定されたのとは異なる音高・リズムで自分の受け持ち楽器の音を出してしまうこと」

としましょうか。

本当は、この定義自体が大問題で、音量や音色などは問わないのか(つまり、きちゃない無神経な音で正確な音高・リズムを盤石に守り続ける演奏のほうが、楽譜から想定されるのとは音高・リズムが相当に違うのだけれども、余人を持って代え難い魅力的な音色、ふるいつきたくなる素晴らしいニュアンスで演奏するより「ポイントが高い」と言えるかどうか。

また、仮に、話を簡単にするために、ここでは音高・リズムに話を限定するとしても、問題になるのが「音高」(セント価などで一意に決められるような)なのか「音程」(その場で鳴っている他の音との相対的な距離として把握されるような)なのか。極端な話、何かの事情で周囲のそこまでの演奏のピッチが極端に、ほとんど半音近く高くなっているときに、「絶対音感」をもつ演奏家が、「A音は442Hzが正しいのだ」と頑固に演奏したら、周囲と半音ズレて、おかしな印象を与える演奏になるけど、それでいいのか?(リズムに関しても同様のことが言えるだろうことは、最近「マジメ」に吹奏楽な人々の間でひとしきり盛り上がったらしいジャズとは?ラテンとは?の話を応用すればわかりますよね。このあたりで、楽器演奏における「ミストーン」問題は、声楽における「音痴」問題、そもそも「音痴」とは何であり、それは本当に「悪」なのか、というのと似た問題領域に踏み込むことになってきます。パフォーマンスにおける「かっこいい/かっこ悪い」が文脈依存で、直観的に判定できることだけれども客観性を求めるのは難しい、ということですね。)

そして、これがオーケストラにおける「ミストーン」を論評するときの一番の問題ですが、「ミストーン」を誰が検出するのか、また、「ミストーン」として検出・認定された演奏の原因・責任を何に求めるのか?

「ミストーン」の検出について言うと、あれだけの人数ですから、お客さんにわからないところで、気付かれないままで過ぎてしまう失敗はいくつもあるはずです(超有名な、来日公演の入場料が何万円もする団体だったとしても)。そして、客に気付かれたらアウト、気付かれなければセーフ、ということになると、これではなんだか、「反則」をめぐって選手と審判が駆け引きしているスポーツのようなことになってきますし、どうしても音のデカイ楽器、音に個性のある楽器が損だ、ということになります。(目立つ奴ほど狙われやすい、というわけで、「ミストーン」をあげつらうことはイジメの温床になりがちです。)

次に「ミストーン」の原因について言うと、結果として表に現れる現象は、特定の楽器の音が楽譜から想定されるのとは違っている、というわけですから、その音を出した楽器(奏者)に責任がある、ということにひとまずなりますが、例えば適切なタイミングで演奏できないのは、その奏者の責任なのか、そのような、やりにくいタイミングを指示する(あるいは、どうやったらいいのかわかりにくい指示しか出さない)指揮者の責任なのか、ケース・バイ・ケースで、そう簡単に特定できるわけではありません。

しかも、最近のリスクマネジメントに関する議論や研究が指摘するように、当事者に単独で責任を負わせることは隠蔽体質を助長して原因究明や再発防止のための改善を阻害して、しばしば集団の活力を削いでしまうことが知られています。そのあたり、「楽団がお前を守るから思い切ってやってこい」な風土ができているかによって、「ミストーン」の責任追及をめぐる環境はかなり変わってくるだろうと思います。「かっこ悪いことするな」と個人にプレッシャーをかけるよりも、「思い切りやってこい、あとはなんとかするから」とハッパをかけたほうが、かえって「かっこいい」成果が出やすいということです。(たとえば児玉・大響の快進撃はそういうことだと思う。ただし指揮者が変わると、あれまあ、と思う演奏をすることもある。最近ようやく人が誉めるようになってきたデュメイ・関フィルは、「精神論」以前に、デュメイが言うとおりにやってる感じで、だから、デュメイが教えられる曲、デxメイが出る演奏会以外に効果が波及するか、そういう本当の意味での「底上げ」につながる現象なのか、いまいちよくわからないし、「底上げ」を楽団として本気で目指すとしたら、辣腕トレーナーを呼ぶだけでなくいっぱいやることが出てきそう……。そっちへ行くのかどうか、行くのがいいのか、考えることはいろいろありそうです。一方、大フィルが、誰が指揮してもそこそこの演奏になる、というのは、その種の「精神論」で底上げするのとは違うレヴェルの地力があるということであって、だから、どうする大フィル?!という話をこういう「ミストーン」論入門編のレヴェルで斬れると思うこと自体が先方に失礼なことだと私は考えていますが、この件は後半で述べます。)

[追記:それから、飛行機や列車の事故の調査報告では、人為的な過失と構造的欠陥(事故が起きてもしかたのない設計や業務運用になっていた云々)を切り分け見分けるのが肝要みたいですが、オーケストラ演奏の「事故」も同様で、プレイヤーの過失なのか、それとも、ぶっちゃけ「曲が悪い」(そんな譜面を書く作曲家が悪い)のか、場合によっては考えなきゃいけないと思います。作曲家は、必ず演奏できる安全な譜面を書く場合もあるし、できるかできないか五分五分のチャレンジを敢えて奏者に求める場合もある。そして作曲当時の楽器・奏法だったらラクチンだったことが現在の楽器・奏法では困難だったり、あるいはその逆ということもある。プロの指揮者・演奏家であれば、そうした事情を踏まえた上で、「それでもやるしかない」と突き進んだり、「あそこは、まあ上手くいかなくてもしょうがないよ、当たらなくてもいいから音楽のニュアンスだけは大事にしてね」と判断したりする。だから、当該の「ミストーン」がどの曲のどの箇所なのかによって、その意味はかなり違ってくるはずです。

ということで、「ミストーン」問題は、「楽譜に忠実であれ」というオーケストラ演奏の「近代化」の根幹部分にも関わってくるところがある厄介なお話です。

そしてやや話は逸れますが、こうしたことを考え始めると、「ミストーン」問題は「歴史的な情報にもとづく演奏」、いわゆるピリオド演奏の是非をめぐる議論に似てきます。「歴史的な情報にもとづく演奏」=「正しい演奏」という等号を盲信してしまうと、音楽・演奏がかえって窮屈で不自由になるところがあって、奇しくも大フィル金管の「ミストーン」を許せない雅哉氏は、同時に、「歴史的に正しくないヴィブラート」撲滅論者なんですよね。彼は、エコロジストが化学調味料や食品添加物を忌み嫌うように古典派・ロマン派音楽のヴィブラートを口汚く罵ります。たぶん彼は、「かっこいいもの」や「安全・安心なもの」を求める素朴な心理を、「近代化」や「啓蒙」の強迫観念と直結して、それで発想が硬直化しているのだと思います。(もしかすると本当はそこから自由になりたいかもしれないのに素直じゃない(笑)。)

音楽は、そこまで清廉潔白にあるべき理想を指し示す気高い存在ではないと私は思っています。音楽は、時には醜いところがあったり、だらしないところも出てきてしまう人間(=オノレ自身)の生き様を鏡のように映し出してしまうことがあって、その仮借なさを突き詰めようとする様が「アート」と呼ばれたんだろうと私は思っています。演劇のようなミメーシスの芸術ほどダイレクトに人間的ではないところもありますが、西洋の「クラシック音楽」が貴重だとしたら、音楽が(もしかすると身の程知らずかもしれないけれども)文学や演劇に負けないものになろうと数世代にわたってメチャクチャ頑張った貴重な奮闘の記録だからではないでしょうか。西洋のクラシック音楽「だけ」がそうだ、と言うつもりはありませんし、「アート」と呼ばれようが呼ばれまいが別の何かを求めて音楽することだってもちろんあるわけですが、でも、とりあえずオーケストラ音楽に代表されるクラシック音楽を人類の「アート」もしくは「文化」として大事にしよう、と言うときの核はこういう無謀で意地っ張りなところだと思う。だから橋下の誘導には応じられないと思うのだし、まあ妥協せざるをえないこともあるだろうけれども、原則論として言えば、おとなしく、キレイで正確な音を並べて、それで従順な飼い犬のように頭を撫でてもらおう、たくさんおひねりをいただこう、とか、そんな卑屈な姿を見たくて音楽とつきあってるわけじゃない。「ミストーン」にこだわるのは、ものすごくケツの穴がちっちゃい感じがするわけです。(今回直接関係はないけれど、対位法の「定石」と戯れてチマチマするのが嫌なのも理由はほぼ同じです。)]

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以上が一般論で、「ミストーン」というのは考えれば考えるほどデリケートでややこしい現象です。

さてそして、最近元気な雅哉氏のロジックは、「そんなことはプロなんだから、解決できてあたりまえ。とにかくミスが減らなければ、団体の継続は認めない」といわんばかりに強引な決めつけで、まあ、非常に分かり易い橋下徹メソッドです。

私はそんな嘘くさいヴィジョンは信じませんが、彼は、こうした橋下メソッドが世の中の閉塞感を突破するという信仰に取り憑かれているらしいのでしょうがない。

あれは、今やほぼ宗教ですから、外から見てると色々おかしいところは指摘できるし、早晩「奪回」や「マインド・コントロールの解除法」が開発されるでしょうから、それを待つことにします。

(ひょっとすると、「信者」のなかでは音楽に理解があるほうである、という自己認識で、「そんなことしてると橋下法王にツブされるから、今のうちになんとかしたほうがいいよ」と大フィルに良かれと思って忠告してあげているつもりなのかもしれないけれど、たぶん、そこが争点ではないと思います。音楽演奏を高得点を争う「競技」として他の種目と競わせる、みたいな発想につながっていくような議論の仕掛け方そのものに違和感があるわけですから。)

ここでは、まわりで傍観しながら、橋下流にも一片の真理はある、と漠然と思っている穏健派な方を想定しながら、「大フィルは弦高管低で、管楽器の補強が急務だ」という雅哉氏の断言は短絡的すぎるのではないか、と私が考える根拠を以下に述べるに留めます。

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雅哉氏が大フィルに苛立っているのは、元吹奏楽少年にして現役アマチュア吹奏楽ファンとして、せっかくのブラスのかっちょいい見せ場で音を外されると腹が立つ、ということだと思います。未曾有の吹奏楽ブームで、バリバリ吹く生きの良い金管奏者がいるはずだから、総入れ替えしてしまえ、みたいに思ってるんだろうと思います。

でも、オーケストラの金管奏者の仕事は、見せ場を決めることだけじゃないはずだと思うんですよね。

オーケストラ音楽は歴史的経緯などから弦楽合奏主体にできていて、弦楽合奏ときれいに合わせられないとオケの金管は務まらないと思う。

ハイドンやモーツァルトでティンパニーと一緒に「数十小節休み〜ド ドド ソ〜再び数十小節休み〜ソ〜ソソ ソ〜〜」みたいな楽譜を調性の軸がぶれないように、その上に弦楽器が乗って弾きやすいようなタッチと音色できちんと吹けなきゃいけない。あるいは、ホルンやトロンボーンの2〜4人が、数十人の弦楽器の響きを壊さないようにハーモニーを作らなければいけない(のだと思う)。

どんなにかっちょいいソロが吹けても、そのあたりのオーケストラ音楽の基礎がぐらついている人だと、「あんな子とベートーヴェンはやれない」ということで、おそらくオケではやっていけなかったりするのだろうと思うわけです(想像ですけどね)。

で、ご存じの方も多いかと思いますが、今は、困ったことに弦楽器(ヴァイオリン)をやる人の数がどんどん少なくなっています。音大はどこもピアノや弦楽器で入る子が減っていて、吹奏楽出身の管楽器でどうにか保っている状態みたいです。

それはどういうことかというと、弦楽器が少なければ大学でオケをやるのが難しくなりますから、オーケストラのことをよく知らないまま卒業して、別にそれでかまわないんだと思ってプロのオケを受けに来るようなタイプが今後益々増える可能性が高いんじゃないかと思う。

しょうがないから筋の良さそうな子を見極めて入れて、あとは社員研修みたいに実地で学んでもらえばいいのかもしれませんが、それができるのは弦楽器セクションがしっかりしていてこそですし、でも、弦楽器は人が減ってますから、ヴァイオリンの英才教育全盛の時代に育った人たちがオケにいる今のように潤沢な日本の弦楽器セクションが、はたしていつまで存続できるのかどうか……。

短期的に見れば、「かっちょいいソロが吹ける若手」に門戸を開いちゃえば吹奏楽ブームとの相乗効果でオケが華やかに盛り上がる、と思えるかもしれないけれど、中長期的には、弦楽器の人材不足に悩む時代が来るだろうことは目に見えています。

むしろ、管楽器ブームで、管楽器については「買い手市場」(いい若手をじっくり選べる状態)の今だからこそ、弦楽器のいい人を確実に補充・確保して将来の人材不足に備えるほうが賢いかもしれない。

そういう風にしているうちに、吹奏楽の人たちは勉強熱心ですから、今後さらに学習して、オケと吹奏楽は求められているものが違う、ということを知っている今よりさらにパワーアップした人材が出てくるかもしれないし、管楽器はそうなってから補充したほうがいいかもしれない。

(今あわててたくさん入れちゃうと、将来本当に凄い人が出てきたときに席がない、ということになるかもしれませんからね。)

もちろん、ここにわたくしが書いているのは、あくまで部外者の想像に過ぎません。本当は「中の人」はさらにもっと色々なファクターを織り込んで動いているんだろうと思います。

たぶん、どの業界も同じだと思いますが、人事は水物。吹奏楽ファンの思いと、とにもかくにも60年生き延びてきた楽団の判断が食い違うことがあっても不思議じゃないと思うんですよね。

(もちろん、ガキっぽい意見でギャーギャー騒がれないように、目立つミスを小手先の応急処置でなく減らせる知恵や工夫があるんだったら、実行するに越したことはないとは思いますけれど、大局的に見ると、大フィルのお客様というのは、ミストーン、ミストーンと騒ぐガキを横目に、万事心得たうえで「昔に比べれば」と思っている方が少なくないんじゃないかなあ、と私は想像しております。昔からの大フィルファンのお客様は、今のブラスセクションを聴いて、ミスが多いことを嘆くより、むしろ、小器用にまとめようとしすぎて野放図さが足りない、くらい思っていらっしゃるんじゃないでしょうか。

ファンが贔屓の団体の「人事」で熱くなるってのは、プロ野球がオトーサンの最大の娯楽だったころを思い出しますね。「阪神のフロントはなっとらん」とか、××監督は、なんでここで○○を使わんのや、とか。毎試合欠かさず球場へやって来て、ベンチのすぐ上のフェンスのところへ貼り付いてきっついヤジを飛ばす名物おやじとか。スポーツ新聞の煽り記事みたいなもんで、聞き流しとくのがいい、ってことなのでしょう。

いやもちろん、阪神ファンの溜まり場みたいな感じに「大フィル酒場」が中之島あたりにできて会社帰りの皆さんがワアワア言い合う、とか、そういう盛り上がりが生まれたら、それはもう素晴らしいと思いますが、オケとお客さんが相互に監視しあう敵対関係になるように煽るってのは、(橋下クンのやり方はあっちこっちをそういう風にギスギスさせるわけですが)どうなのかなあ、と思うわけです。ネットの人が「炎上マーケティング」とか言いますが、それは容易に全焼しないキャパのある大規模ビジネスの話でしょう? 個人や中小でやると当事者の消耗が大きすぎます。ちょっと考えればわかることだけど。)