アマチュアの楽園がどのように「開発」されたか?:『バンドジャーナル』(音楽之友社、1959〜)を読む

[後半に、吹奏楽ワールドに大栗裕が導入されるプロセスの概略を付記。10/11 『バンドジャーナル』リニューアルの年を間違って1979年としていたのを1977年に訂正。関連する記述もあわせて修正しました。]

私がとりあえず見たのは1970年代以後ですが、それだけでも、日本の吹奏楽がどうやって創られてきたのか、一端が見える気がします。

昭和30年代には、全日本吹奏楽コンクールが吹奏楽の編成や奏法を北米基準で標準化する役割を果たしたと思われ、日本の吹奏楽には「近代化=北米化」という、いかにも60年代っぽいことが起きているわけですが、

70年代初めの『バンドジャーナル』では、プロの楽団(東京佼成、大阪市音、大阪府音などのみならず、音楽大学の吹奏楽もここに含まれる)のコンサートとその批評が巻頭グラビアなどで大きく扱われています。自衛隊各方面音楽隊のコンサートも写真入りでレビューが出てます。北米をお手本にして標準化された吹奏楽(シンフォニック・バンド)は、コンサートホールでの「鑑賞」の対象となる方向を目指していて、そのフラッグシップとして、「日本のプロ」を盛り立てようという動きがあったようです。普段はオーケストラと仕事をしている指揮者が登場したり、普段はオーケストラを批評している書き手が演奏会評を執筆したりしています。

そして1975年前後に、レコード各社が、競ってそうした「日本のプロ吹奏楽団」のレコードを発売するようになる。「ニューサウンズ・イン・ブラス」はやや先行していますが(=1972年第1集リリース)、他に「コンクール自由曲集」とか「吹奏楽名曲集」とか……。汐澤安彦が大活躍した頃ですね。(当時のLPはうちにも何枚かある。高校時代(1981、82年頃)に買った。)

それ以前から海外楽団のレコードは色々輸入されていたようで、日本のプロ楽団のレコードとして最初に出たのは、マーチ集など既存の海外楽団と同じレパートリーを日本の楽団で演奏する企画。このあとで、日本人の作品や新作・独自企画のレコードが制作される、という順番のようです。「日本製」でも品質は劣っていないことを外国製と比較して確認してから、本格的な生産がスタートしたように見えます。なんだか、「メイド・イン・ジャパン」が粗悪品ではないことを市場に納得させてブランドを確立するホンダやソニーの苦労を連想してしまいます。日本製を海外に売るのと、輸入物中心だった国内音楽市場に日の丸国産を売り込むのと、方向は逆ですが。

大栗裕の指揮する「小狂詩曲」(大阪府音楽団)や、朝比奈隆が指揮する「吹奏楽のための神話」(大阪市音楽団)のレコードが出たのもこのときです。『バンドジャーナル』の巻頭グラビアには、新譜の録音風景を取材した記事がしばしば掲載されています。大阪市音楽団を箕面市民会館(音がいいということで録音セッションに使われた)で指揮する朝比奈隆とか。「神話」は、新譜レコード評を見ると、吹奏楽曲としては破格に「長い」、そしてそれに見合って聴き応え十分の大作と受け止められたようです。

そしてほぼ同じ時期に、「演奏会の作り方」を指南する記事が出るようになります。どうやら昭和50年頃にプロをお手本にして「定期演奏会をやる」動きが出て来た、もしくは、そういう動きを促そう、ということだったように見えます。ひょっとすると、各地に「市民会館」ができて、地元の学校の吹奏楽部が演奏会をやりやすくなった時期だったりするんじゃないでしょうか……。

またこの頃になると、フランシス・マクベス、ロバート・ジェイガーといった北米の人気作曲家が来日して、それと関係があるのかないのか、アルフレッド・リードを含む北米の定番レパートリーの日本版楽譜が増えていく。発行は東亜音楽社になっていて、これと音楽之友社との関係がよくわからないのですが……、こうした北米の作曲家とのつながりが、1980年代にフレデリック・フェネルが東京佼成の常任指揮者になり、アルフレッド・リードが毎年のように日本へ来て、1988年に洗足学園音楽大学の客員教授になる、といった出来事へつながっていくのでしょうか。

現在「吹奏楽オリジナル曲の定番」とイメージされる作品群は、70年代に音楽之友社/東亜音楽社が日本での出版権を得た作品が核になっていると考えるとうまく整理できそうな気がします。

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そうして1977年4月号から『バンドジャーナル』が若干大判になるとともに誌面も写真やイラストが増えて全面リニューアル。一口で言うと、それまでの誌面が吹奏楽関係の「オトナたち」(指導者)を対象にして、プロ・有識者の執筆した記事を掲載していたのが、吹奏楽部の中高生を想定読者とする雑誌に変わった印象を受けます。

[上の段落、当初「1979年」と書いていましたが1977年4月号の間違いだったので、訂正しました。]

(受験産業で言えば、秘教的なZ会的ではなく、楽しく学ぶ福武書店、進研ゼミのノリ。蛍雪時代な旺文社というよりも、小学館の学年別学習雑誌(ドラえもんが載ってる!)な感じでしょうか。)

私が興味深いと思ったのは、このとき音楽之友社の管楽器楽譜総合カタログの小冊子が綴じ込みで付いていることで、「吹奏楽」を中高生の楽園としてプレゼンテーションできるようになったのは、彼らの「吹奏楽ライフ」をトータルコーディネートするインフラが整ったということでもあったのだと思われます。つまり、中高生が自力で自分たちの世界を切り開いたというよりも、オトナたちが何十年もかけて準備して、本格稼働の体制が整ったところで、「さあ、これからはここで好きに遊んでいいですよ」とテーマパークのゲートが開かれた感じがします。

(浦安の東京ディズニーランドができるのはまだ先(1983年4月)だが、1981年にはニュー・サウンズのディズニー・メドレーが出ます、この年の高校の文化祭を皮切りにいったい何度演奏したことか……。ブラバンは、大河ドラマのテーマ曲(毎年『バンドジャーナル』の付録になる)も歌謡曲もアニソンも何でも咀嚼する雑食ですが、80年代アイドル全盛期に「離陸」したんですね。)

明治の軍楽隊、大正から昭和前期の音楽隊の時代から、現在の「日本の吹奏楽」にたどりつくまでの経路を見るときに、『バンドジャーナル』のリニューアルに至る30年が、結構重要かもしれない気がします。そこをちゃんと整理しないと、1977年以後に「テーマパーク」化して、独自の世界へ離陸した「日本の吹奏楽」をうまくつかまえることができなさそうですね。

誰か本格的に「研究」してください。

[付記]

なお、この頃の吹奏楽の「古典意識」や「歴史意識」は萌芽的なものに留まっているように見えます。自社の新譜のレビュー記事とは別に「ジェリコ」や「シンフォニア・ノビリッシマ」の演奏法の解説記事が出るのは、これらの作品が定番になりつつあったからだと思われますが、「吹奏楽名曲ベスト○○」的な記事はごくたまにしか出てきません。まだ市場が狭く、どれが「定番」なのか、関係者には周知なので、わざわざ記事にする必要がない状態だったのではないかと思われます。

兼田敏や保科洋、当時人気のあった小山清茂(オーケストラ曲「木挽き歌」の吹奏楽編曲)など「邦人作品」も、コンクール課題曲とともに「定番」のなかに混ざっている状態で、新人が発掘されて、出版社が囲い込んで……というような吹奏楽曲の国内での量産体制には、まだなっていません。(藤田玄播が、ややそういう存在になりかけている感じではあるけれど。)

1984年に『日本の吹奏楽'84』という別冊が出て、日本人の主要作品・主要作曲家をピックアップして、作品リストが載っているので、1980年代後半に「邦人作品」の演奏がさかんになるのも、自然発生的ではなかったんじゃないか、という気がします。人と曲が揃ってきたところで雑誌が仕掛けて、見事に当たった感じに見えます。

そして1982年に亡くなった大栗裕は、この流れに見事に乗った。課題曲「小狂詩曲」と「バーレスク」以外、楽譜は出版されていないけれど、「神話」は1975年にレコードが話題になったし(同年早速、コンクールの自由曲でこれを演奏している学校あり)、淀工など関西の団体が「大阪俗謡による幻想曲」を取り上げはじめたタイミングで、別冊『'84』が出た。同書での作曲家紹介は、既に出版された作品を譜例入りで紹介する形式なのに、大栗裕の記事だけは、紹介された曲が未出版なので出版社名の表記がないし、譜例も出ていません。代わりに山の日の出ほ写真が載っているのは、「神話」のアマテラスのイメージ映像でしょうか?

でも、既にこの頃、大阪音大に自筆譜は集まっており、これを底本にして、1985年から1991年にかけて順次楽譜が出ます。平成に改元された1989年に音楽之友社から「神話」の楽譜が出て、東京佼成のCD「Japanese Band Repertoire」第1弾に三善晃「深層の祭」(1988年の課題曲だがコンクールでは敬遠するところが多かったとも伝えられる)などと一緒に収録される。

深層の祭

深層の祭

このCDの発売日は当時の広告によると1990年12月21日。1960年代にはまったく遠いところにいた三善晃(受賞歴多数の末に文化功労者)と大栗裕(芸術祭に必死のパッチでヴァイオリン協奏曲を出品するも、あえなく敗退、人知れず涙)が一枚のCDのなかに並んだ瞬間です、ワーイ!
ぐるりよざ

ぐるりよざ

  • アーティスト: 間宮芳生,石原忠興,保科洋,大栗裕,青島広志,伊藤康英,小田野宏之,東京佼成ウィンドオーケストラ
  • 出版社/メーカー: インディペンデントレーベル
  • 発売日: 1991/12/21
  • メディア: CD
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東京佼成の「Japanese Band Repertoire」第2弾が「ぐるりよざ」で、これはちょうど1年後の1991年12月21日リリース。

「ぐるりよざ」は、隠れキリシタンのオラショが壮麗なコラールに生まれ変わって、あたかも日本という国に実は17世紀以来、輝かしい西洋音楽が鳴り響き続けていたかのような幻想を抱かせる。起源を捏造する「偽史」の誘惑(やや80年代的)と、西洋音楽の世界のフルメンバーとして承認されたい欲求(それは作者個人のものなのか「日本の吹奏楽」の悲願なのか……)が生み出した壮大なアマルガムによって、「自分探し」な90年代が幕を開ける、そんな感じがする曲ですよね。

古事記の神々がボンゴとコンガで踊る、いかにも昭和的・雑種的な大栗裕が吹奏楽の「古典」になったのと、近世日本に西洋音楽が鳴り響く「ホンモノより美しいシュミラークル」の平成世代の登場は、ほとんど同じ時期だったことになります。歴史という物語は、「古典」とそれを乗り越える「モダン」をほぼ同時に生成するわけです。これは、「古典派/ロマン派」の場合も、「悪しき19世紀/モダニズムの20世紀」の場合でも、いつでもそうですね。

そして大栗裕没後10年目の1992年に大阪市音楽団が「大栗裕作品集」を制作して(発売は1993年1月)、樋口幸弘さんの詳細な解説と作品表等が掲載されます。未出版で譜例を掲載することすらできなかった1984年から8年間で、大栗裕をめぐる状況が一変しました。

大栗裕作品集

大栗裕作品集

  • アーティスト: 木村吉宏朝比奈隆,大栗裕,朝比奈隆,木村吉宏,大阪市音楽団
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2009/04/22
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「神話」は、まずスコアだけが、バンド指導者向けの別冊として刊行された『シンフォニック・バンド』というムック本に付録として出ます(同タイトルのムックは都合4冊出ていて、「神話」が付録に付いたのは1989年11月10日発行のvol.2)。上述のように、『バンドジャーナル』本体は1977年から中高生向けの誌面構成になり、この体制が10年以上続いて、読者が社会人になり、そろそろ次の指導者になるか、というタイミングで、上位ヴァージョンのムックを出した形なのだと思います。想定読者が中高生の頃、レコードで音だけ聴いた、あるいは、手書きの譜面を入手して演奏した「あの曲」の楽譜が遂に出る、というわけですね。大栗裕の作品は1977年以後の「日本の吹奏楽」ワールドでかなり大切に、一種の「決め球」として扱われてきたと言えそうです。

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「東洋のバルトーク」、もしくは、当時の吹奏楽雑誌の表記だと「日本のバルトーク」という言い方も、1980年代の吹奏楽における大栗裕のこうした扱われ方のなかから出てきたようです。

  • (a) 吹奏楽部員の中高生が『バンドジャーナル』の想定読者層で、
  • (b) その指導者であるところの顧問の先生が別冊『シンフォニック・バンド』の想定読者になっている
  • (c) そうした指導者層に向けて、彼らを指導する立場と想定されるプロの先生方=「先生の先生」が大栗裕を紹介する
  • (d) そして大栗裕とは誰かと言うと、吹奏楽のプロの先生方の先生筋に当たる人=「先生の先生の先生」なのである

という構造です。で、その大栗裕が「日本のバルトーク」だ、ということになると、それはつまり、バルトークのようなクラシック音楽の作曲家は、日本の作曲家よりさらに上の等級、いわば「先生の先生の先生の先生」なのだ、ということが示唆されて、これで、想像上の音楽マンダラが完成するのだと思います。

バルトーク=((先生の先生)の先生)の先生=もうわけわからん無限大で雲の上の存在、ネ申

大栗裕=(先生の先生)の先生=偉すぎる人らしいけど、同じ日本人だし、頑張れば手が届きそう、かも

日本の吹奏楽のプロ奏者=先生の先生=リアルに距離を測定できる分だけ、かえって怖い存在、だってコンクールの審査員だし

吹奏楽部の顧問の先生=日々恐い、直立不動みたいな

吹奏楽部員=そんななかで青春なボクたちワタシたち

私の考えでは、大栗裕自身はこういう、仏教的というより、仏教誕生の前提になったヒンズーのカースト制に似ているかもしれない階層構造で音楽を捉える人ではなかったと思いますし(参考:http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/ohguri-nog20121125.html)、

大栗裕の音楽を面白いと思って多くの人が演奏するのは、そのあたりの屈託のなさを感じ取っているからではないかと思うのですが、「東洋のバルトーク/日本のバルトーク」という言葉には、大栗裕の吹奏楽作品がパブリッシュされた場の構造の痕跡がある、と言えるかもしれませんね。