複製の創出 救世主イエスの祝祭日を前にして細川周平『レコードの美学』とアドルノとベンヤミンを読む(もちろんBGMは日テレ放映の「This Is It!」)

[12/26 ミュラー=ドーム『アドルノ伝』を読んだ感想を最後に追記しています。12/31 タイトルから「芸術」の語を削除。複数箇所を「複製芸術→複製技術」と変更。ただし、ギリシャ語系のtechnologyが「技術」、ラテン語系のartが「芸術」、と機械的に訳し分ければ済むことでは、本来ないはず。Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeitというベンヤミンの論文は、芸術と技術の話でもあり、労働と(再)生産の話でもあり、(一回性と)反復=ヘビーローテーションの話でもあり、[以下、引用が不正確だったのを修正]最後には「政治の美学化」(ナチスが繰り出すプロパガンダの基盤にreproductibilityがあると考えていたのか?)と「芸術の政治化」(新時代の「わざ」には「わざ」で対抗せよ、の意味か?)という呼びかけもありますから、テクネー(希)はOKで、アルス(羅)はNGだ、と19世紀ブルジョワの「ザ・芸術」崇拝を逆立ちさせただけの価値観で何かが解決したかのように思うのは幼稚でばかげていますが、それはまた別の話。→2011/1/12 この件に関連して、一番最後にさらに[補足]を加えました。]

「クリスマス・イヴに自宅に籠もってアドルノとベンヤミンを読みあさる、というのはネタとして面白いかもしれない」

と不意に思い立ち、手持ちのアドルノ、ベンヤミンを全部引っ張り出してきて、まだ持っていなかった邦訳は昼間のうちに本屋で調達して、ざっと眺めてみました。

音楽社会学序説 (平凡社ライブラリー (292))

音楽社会学序説 (平凡社ライブラリー (292))

昔、図書館で借りて読んだけれど、探してみたら手元にはなかった。
アドルノ 音楽・メディア論集

アドルノ 音楽・メディア論集

  • 作者: テオドール・W.アドルノ,渡辺裕,Theodor Wiesengrund Adorno,村田公一,吉田寛,舩木篤也
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2002/10
  • メディア: 単行本
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最近はこの論集に訳出された論文の引用をよく見かけますね。アドルノが今も生きていたら、シュピーゲル誌には、文化産業としての「翻訳」に関するアドルノ先生の座談を取材してほしかったかも(笑)。

アドルノが19世紀の生き残りっぽい雰囲気を身に纏いつつしつこく続ける座談は、今改めて読むと、最後の江戸っ子な雰囲気を感じさせつつ展開するビートたけしの毒舌を連想してしまったりもする。世代からいうと、むしろ立川談志でしょうか、いずれにせよ、江戸落語な感じ。「アドルノ=笑いの取れない噺家」説?

新音楽の哲学

新音楽の哲学

シェーンベルクの代弁者を買って出るアドルノの態度は、ベートーヴェンの晩年の押しかけ秘書でベートーヴェンの死後あることないこと言いふらしたシントラーに似ている気がするのですが、そういうことを言うのは冒涜なのでしょうか?

発端は、前の日に、細川周平さんの『レコードの美学』を久しぶりに読み直したこと(速いもので、もう刊行から20年なのですね)。

レコードの美学

レコードの美学

今でも現役商品なのですね。ちょっと感動しました。

では、どうして今『レコードの美学』なのかというと、

ひとつは、このところ、レコード歌謡関係の本を読んだりして、日本のポピュラー音楽論は、どうして現在のような形になったのだろう、と遡って考えると、若手・中堅研究者の「兄貴分」としての細川周平さんに突き当たるということ。

そしてもうひとつ、日本の音楽研究者がアドルノを有り難がるのか謎だ(私は、昔から今に至るまでアドルノを面白いと思ったことがない「アドルノ不感症」です)、という思いがあり、細川周平さんはどんな風にまとめていたのだったか、確認したいと思ったからです。

細かく書くと、ものすごく長くなりそうなので、mixi(日記は友人まで公開です)に走り書きしたメモに最低限の加筆をして貼っておきます。

本を読んだ直後の勢いで、いつも以上に乱暴に書き散らしている、ということで、ご了解くださいませ。

●12/23 「レコードの美学」20周年

なんとなく気になって細川周平さんの「レコードの美学」を読んでみる。ベンヤミンとアドルノをどういう風に扱っていたのか確認したくて、というのが動機だったのですが、それよりも前半のエジソンからCD登場までの歴史の部分が面白かったです、今読むと。

思ったのは、レコードの感性としてこの本で位置を確保されようとしている現象が、たぶん、磁気テープの登場以後=1950年代以後=ロック以後にならないと全面的には語れそうにないということでした。で磁気テープ論のところが一番面白かったです。

一方、実はこの本の出た1990年にはすでにキットラーなどの下敷きにできる著作があって、エクリチュールとしてのレコードの溝etc.という話はそのあたりを参照しているのかなあ(当時、日本語では新鮮だったかもしれないけれど)、とも思いました。(キットラーは、既に文庫になっていたのですね、知りませんでした。)

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉 (ちくま学芸文庫)

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉 (ちくま学芸文庫)

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈下〉 (ちくま学芸文庫)

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈下〉 (ちくま学芸文庫)

で、しかしながら、そのあたりの20世紀前半は、それから20年で随分色々なことがわかってきて、今ではもう、磁気テープ登場以後・ロック時代の「前史」としては語れなくなっているような気がします。(たぶん細川周平さんご本人も、その後の色々なお仕事を考えると、今ならもっと違った風に書いたのではないか、と思う。)

結局、書物の枠組みはレコード論(溝を掘った円盤がクルクル回るメディアに関する議論=ほぼキットラーの枠組み)なのに、実際に著者がその権利を主張したいらしいのは磁気テープ以後・ロック以後の感性の話だ(「サージェント・ペパーズ」とかグールドの話がやたら熱い)ということで、そこがうまくかみあっていないのかもしれない気がしました。

実はこの本は、レコードの美学ではなく、「磁気テープの美学」として書かれねばならなかったのではないか、と思ったのでした。

さてそうして、

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

ベンヤミンと言えば晶文社、と思ってしまいますが、いつの間にか装丁が変わっている。
ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

今は↑こっちのほうが読まれているのでしょうか。
啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

  • 作者: ホルクハイマー,アドルノ,Max Horkheimer,Theodor W. Adorno,徳永恂
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/01/16
  • メディア: 文庫
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フランクフルト学派の文化産業批判というと↑これだと思いますが、岩波文庫に入っていて驚きます。もう「古典」なんだ、と。
不協和音―管理社会における音楽 (平凡社ライブラリー)

不協和音―管理社会における音楽 (平凡社ライブラリー)

軽音楽についてのアドルノの文章は、似たような話があちこちにあって、どれを見たらいいのか、どうもよくわかりません。(まさに、落語の同じネタの複数のヴァージョンみたい……。)とりあえず、フェティシズムが論文題名にも入っているので『不協和音』所収のものが代表なのでしょうか。

『レコードの美学』でも、ベンヤミンの複製技術論への応答として書かれたということで、この論文が主に取り上げられています。

論文集のメインタイトルが「不協和音」、サブタイトルが「管理社会における音楽」、冒頭論文の題名が「音楽における物神的性格と聴取の退化」。アドルノが硬派な左翼知識人として読まれていた時代の代表作は、やっぱりこれですよね。内容云々以前に、「不協和音/管理社会/フェティシズム/聴取の退化」という活動家の立て看板のような言葉で武装しているところが素晴らしい。(でも、私は、何回チャレンジしても、アドルノの本の中身には感動したり、萌えたりしないし、外側から眺めて、イガイガの突き出た兵器のようなカッチョイイ文字面だなあと思うばかりですが。)

ベンヤミン、アドルノ論争もなんとなくごちゃごちゃしていて[追記:ベンヤミンとアドルノを読んでからもう一度細川さんの文章に戻ってくると、ベンヤミンの「複製技術時代における芸術作品」とアドルノの「音楽における物神的性格と聴取の退化」を対比しながら二人の芸術観をまとめた独立レポートとしてはコンパクトに美しくまとまっているのだとわかりましたが、本筋のレコード論とのつながりがちょっと見えにくい場面があるように思われ]、第一に、「磁気テープ時代の音楽」を語るための原点として彼らを使うのはもうやめたほうがいいのではないか、ということ、そして第二に、「磁気テープ時代」=現在とは切り離して、ほぼ、時代の歴史的文書として読んだときに、時代の限界があるのか、それ以上のものがあるのか、というところで決算してはどうか、と思いました。

今冷静に振り返ると、彼らの発言は過剰反応にみえてしまうところがあって、実は、彼らが直面したテクノロジーは、そこまで大きなことが(彼らの考えていた方向で)言えるほどではなかったのではないか、とそんな感触があるのです。(過剰反応的に何かを言わねばならないと彼らが考えたであろうことは理解できますが、事情が違ってしまっている現在の私たちが、そうした言葉を自分たちに都合良く使わせていただいていいのかどうか、躊躇いを覚えます。)

ベンヤミンの複製技術論は、ナチスを視野に入れたと思われる「政治の美学化」への対案としての「芸術の政治化」を主張して終わっていて、火急の課題が念頭にあるものだから既存芸術の総括はかなり乱暴になっていて、「今・ここ」性とか「アウラ」とか、一語に色々詰め込みすぎるのは(そこをアドルノがベンヤミンへの手紙で指摘したことは『レコードの美学』でも紹介されている)、ベンヤミン流のメシア的顕現への志向だけではない状況(その末に彼が極端に悲観・衰弱して自死してしまうに至るとはたぶんアドルノには予期できなかったであろうような)がありそうな気がしますし、アドルノが芸術体験vsフェティッシュのいつもの図式に落とし込んだ場合のレコードの位置づけは、まだ磁気テープがない一発吹き込み(編集不可)だった時代の話で、どんどん編集してからリリースできた戦後のLP/EPとは別物だといっていいくらい違うのではないかと、これは今だから言えることかもしれませんが、思いました。

[付記:「政治の美学化/芸術の政治化」の解釈は、その後みつけたhttp://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040210#p2が周到かと思いました。いずれにせよ、ベンヤミンの段階では、後者は課題として指し示されたにとどまっている、と思う。]

付随して、『レコードの美学』を久しぶりに読み返しながら思ったのは、20年前に想像されていたよりも、実際に2010年=21世紀になってから振り返る20世紀は「長い」、ということでした。ひとつながりの持続をそう簡単に仮定しないで、円筒の錫箔・蝋管時代/円盤の機械吹き込み時代/電気吹き込み時代/磁気テープの登場/CD登場と10年、20年単位で小分けにして、それぞれの時代の周辺現象と突き合わせていく作業が今は必要だ、という感想をもちました。(でもそれにしても、『レコードの美学』が出たのはCDというものが世に出てからまだ10年経っていないタイミングだったのですね。)

●12/24 視覚と聴覚がパラレルでシンクロすると想定した20世紀は特殊な時代かもしれない

本の山をかきわけてアドルノとベンヤミンを引っ張り出してきました。

そうしたら、(相変わらずアドルノをまったく面白いと思えなくて、たぶん私のアドルノ不感症はかなり根深いような気がするのですが)ベンヤミンは「写真小史」を圧倒的に面白く思いました。関連する写真のついた翻訳本もあって、手軽に具体的に楽しめるようになっている便利な時代なのですね。

図説 写真小史 (ちくま学芸文庫)

図説 写真小史 (ちくま学芸文庫)

「写真小史」を文中に言及された写真の実物を参照しながら読める。

複製という主題、大衆という主題(誰もが撮影できてしまうし、誰もが被写体になってしまう)、都市という主題が全部「写真論」には入っていますし、写真論+映画論という形で19世紀と20世紀がスムーズに接続している。

一方、レコードは、アドルノが軽音楽を論じ始めた1930年代では無理なんですね。誰もが録音できて、あらゆる音がソースになる段階は1950年代の磁気テープの普及以後にならないと実現していないし、編集の力もまだ発揮できない。アドルノが晩年に突如オペラLPを絶讃したのは、ようやくレコード・録音がまともに使えるようになったという面がありそう。

アドルノ 音楽・メディア論集

アドルノ 音楽・メディア論集

  • 作者: テオドール・W.アドルノ,渡辺裕,Theodor Wiesengrund Adorno,村田公一,吉田寛,舩木篤也
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だからといって、アドルノを有り難がる風潮については、私は相変わらずまったく共感できませんが。

テクノロジーの起源を年表でみた場合にも、写真は、19世紀半ばには芸術として作品が流布し始めているのに、1877年に発表されていた蓄音機は20世紀にならないと使い物にならなかった。

映画の完成形はトーキーだ、という「神話/夢」を生産したハリウッド(まるで写真とサイレントが不完全な前史であるかのように)と、音楽商品が(生産工程・データ形式・美学が全然違うのに)円盤の形で製造しつづけられた事実(まるでエジソンからCDまでがひとつづきであるかのように)が、そういった事情を覆い隠してしまって、まるで、視覚メディアと聴覚メディアが同時に20世紀に革命を経験したように思いこまされているけれども、実はこれこそが、最大の「神話」なのではないか。そんな気がしてきました。

菊地成孔が視聴覚のズレを言っていたのと、蓮實重彦がマラルメの声とか言いながら視覚と聴覚の時差をエッセイに書いたりしていますし、視覚と聴覚をもう一回ばらすところから21世紀がはじまる、というホラ話をしてみるとか……。(「ベンヤミンは視覚偏重、アドルノは聴覚偏重」という図式化は陳腐だ、という細川周平さんの指摘は確かにそうだと思うけれど、視覚と聴覚を分けて考える習慣がもうちょっと広まったほうがいいのではないかと思います。)

ゴダール マネ フーコー―思考と感性とをめぐる断片的な考察

ゴダール マネ フーコー―思考と感性とをめぐる断片的な考察

視覚メディアと聴覚メディアの時差の話を、キットラーを俎上に載せながらやっている。

近代以前には、声と図像の扱いは別々だったわけですし、音と言葉、音と身体動作、音と視覚がガッツリ同期していたわけではないだろうということは、音楽の歴史を思い返せば色々思い当たることがあります。

声と図像がシンクロして動くイメージが席巻した20世紀は特殊な時代だったのかもしれませんね。

アフロ・ディズニー エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで

アフロ・ディズニー エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで

黒人=オタク説もいいのですが、菊地成孔が自分のサイトにいつもスナップ写真を載せているところが、実は大事なポイントなのかもしれない。

写真〜サイレント映画〜ファッション・ショウという風に19世紀後半から現在まで世紀の境目をまたいでいる感性の系譜があるかもしれない、そっちを意識しつつ、「複製技術」談義をやりすごしてオトナの会話をしてみませんか、というお誘いということで。

日本の電子音楽

日本の電子音楽

「レコード/Record」という言葉であの黒い円盤を連想してしまうと20世紀前半から商品として流通していたことになってしまうけれども、「録音」というテクノロジーの可能性が顕在化したのは磁気テープの登場以後だったのではないか、という風に思い直したところで、電子音楽のドキュメントをもう一度読み直してみたく思いました。

[12/26 追記]

アドルノ伝

アドルノ伝

おおかたそんなところだろうと思ってはいましたが、アドルノの父はフランクフルトの裕福なワイン商で、母は元オペラ歌手。同化したブルジョワ・ユダヤ人コミュニティの出身なのですね。奥さんは父と取引のあったベルリンの商家の娘さんで大学出のインテリさん。

(彼の一家が店を開き1914年まで住んだのはフランクフルトのど真ん中の高級住宅街ですから、「アルプスの少女ハイジ」のゼーゼマン家が想定されているあたりで育ったということになりそうですね。母とその妹(やはり歌手で生涯独身、ヴィーゼングルント=アドルノ家に同居して、子供達の世話係だったらしい)にしつけられたというのだから、さしずめこれはロッテンマイヤーさんでしょうか。アドルノの文化産業論は、「アーデルハイド」と出会うことのなかったクララ、と思えばいいのかも。誰か「宮崎駿×アドルノ」というジジェクのパロディをやってみたら?)

京都・龍村のお嬢様がアドルノの音楽論読解に心血を注いだり、伊丹の造り酒屋の末裔の岡田さんが好んでアドルノを引用するのは、お嬢様・お坊ちゃまとして共感できてしまうのかもしれません。

ユダヤ人なのでナチスによって大学の職を追われてロンドンからアメリカへ亡命して、でもそれゆえにと言うべきか、戦後帰国してドイツ再生のオピニオン・リーダーのような存在になり、評伝によると「ミニマ・モラリア」がその火付け役となり、そんな風に目立つ存在だったからこそ、60年代末の大学紛争で過激派学生の標的になった、ということのようです。

が、それは時代の巡り合わせ、「運」のようなもので、生涯を順番に見ていくと、史的唯物論に接近したのは、幼年期のブルジョワ文化が第一次大戦で崩れ去っていく状況を解析するのに必要だったからであるように見えます。「生まれてきてすみません」の太宰治みたいな自分の階級への逆コンプレックスみたいなものは微塵もない。むしろ、あの「批判理論」と呼ばれる難解な話の運びは、滅び行くブルジョワ文化の最良の遺産を目減りさせることなくガードする盤石の理論武装だったのではないでしょうか。

(たとえば、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という有名な一文がありますが、(1) 『プリズメン』では、そこに、「そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも浸食する」と続いているので、「もはや詩は野蛮だ」と突き放して告発しているわけではなく、「もはや詩を書くことは野蛮で不可能だ」と批判することもまた野蛮だ、と思っている節があり、(2) この一文を最後の段落に含んでいる文章「文化批判と社会」は、文学論ではなく、むしろ、文化とそれへの批判の骨絡み状況のほうを延々と書きつづっており、(3) さらにこの文章は『プリズメン』という1955年の自選論文集の巻頭に置かれて、「文化批判と社会」は本の副題にもなっているわけですけれども、(4) 初出はレオポルト・フォン・ヴィーゼの75歳記念論文集に寄稿されたようで(1949年)、文化(とその批判)をめぐる考察は、どうやらアドルノが合州国でやりはじめて、フランクフルトでも継続することになった彼なりの社会学とも関連して必要な作業と認識されていたように思われます。

なんだか、芋づる式に色々なものが絡みつく仕掛けになっているようです。文学・芸術の話のつもりだったのに、音楽のほうからアドルノに関心を抱いた人がたいていはほとんど知らない、アンケート調査をやったりする社会学者としてのアドルノの姿もほんのり見えてきたりして……。

脳みそが貧乏だとメモリがオーバーフローしそうですが、別にイジワルでそうしているのではなく、そういう人なのでしょう。)

そういうニュアンスがわかるから、良家の末裔の皆様が「しびれる」のかもしれませんね。

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アドルノの思考の構えや彼が関心を抱く対象は、1920年代から晩年までほとんど変化していないようです。彼が亡命したり、帰国後有名人になるのは周囲の事情であって、本人は驚くほど変化がない。「アウシュヴィッツの前と後」で世界は変わった、という認識があるかもしれないけれど、そのような変化を語るアドルノ自身は、まるで不動点であるかのようです。

アドルノ自身の説明とは違う言い方になってしまいますが、芸術体験(無調をその頂点と位置づけるような)が揺るがない参照点になっていたと思えてしまうし、芸術体験が参照点となりえたのは、「大戦争(第一次大戦)」後に、それを永久凍結保存できる態度を編み出したからであるように見える。その詳細を読んで勉強しようという気持ちを私はまったくもてないのですが、その骨法がいわゆる「否定弁証法」だ、ということになっているのかなあ、と想像しております。

こうなってしまうと、外側から見た場合には、ブッダやイエスのような宗教家の教説と違いがよくわからないんですよね。

入信すると、そのエコシステムのなかで安寧に生きることができるかもしれないけれど、守り伝えるべき文化資本が手元にあるわけではない「文化的貧乏人」には、解読・習得しても使い道のない理論・語法という気がしてしまいます。

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問題は、このアドルノ生態系のなかに音楽が組み入れられてしまっていることであって、たとえば、アルバン・ベルクから作曲の助言を受けていたり(レッスンと言っても、シェーンベルクが弟子たちとやっていたようなアナリーゼのトレーニングを受けて、徒弟的なコミュニティに迎え入れられたわけではなく、ベルクのところへ通って自作を添削してもらったりしただけみたいなので、作曲実技は作風がシリアスで難解であるにしても宮沢賢治のようなお坊ちゃん芸であった疑いは拭えない)、Anbruchを編集したり、トーマス・マンの「ファウスト博士」のために情報提供したり、新ウィーン楽派の周辺にいたインフォーマントなので、アドルノがそういう人なのは仕方がないけれど、音楽に関する情報は普通に使える状態になっていて欲しいわけですが、

幸いなことに、そのあたりの音楽関連業績は、死後、(ちょっとグロテスクな比喩かもしれませんけれども)ちょうど遺体から臓器を移植するようにして、使える部位の主なものは、既に、音楽学者たちが、難渋な理論から分離済みであるように思います。マーラー論でも新ウィーン楽派論でも、今では直接アドルノにアクセスしなくても、70年代以後のまっとうな研究書を見れば、アドルノの貢献や問題点について、一通りの情報を得ることができる状態になっているはずです。

      • -

ポピュラー音楽研究があいかわらずアドルノにしばしば言及するのは、臓器の「取り忘れ」があって、遺体を直接触る必要があるということなのでしょうか?

墓を掘り返して、棺桶を開けて、遺体をメスで切り刻むような作業は、それなりに能力のある執刀医がみんなの代表として一度ですぱっと済ませたほうがいいんじゃないかと思うのですが……。ポピュラー音楽研究だからといって、遺体を群衆のど真ん中に投げ入れて、みんなでベタベタ触りたい放題にいじくる、みたいなグロテスクなことにならないことを祈っております。

シェーンベルクの周辺の人たちにとっては、代弁者になってくれるかと思ったら妙に小難しい文章を書いてややこしい人だと痛し痒しだったらしき気配がありますし、トーマス・マン(の取り巻き?)からもややこしい人だと思われていた雰囲気はありますが、弄んではいけない。そんな風に扱うんだったらほっといてあげたほうがいい、そういう人のような気がします。

私のアドルノ観は以上です。

[2011/1/12 補足]

ベンヤミンの論文Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeitは、「複製技術時代の芸術[作品]」の邦題で知られていますが、原語の構文を日本語に愚直に反映するように訳せば「技術的再生産が可能な時代における芸術作品」となり、「technisch」や「Reproduktion」をどのような意味で使っているのか、一応確認しておくのがいい気がしたので、簡単にまとめてみました。

(ネットで見つけたドイツ語原文を参照しています。見つけたのは1939年版ですが、以下で引用した箇所については、日本語訳のあるより古い版から変更はなさそうです。ベンヤミンのドイツ語は、少なくともこの論文では、抽象的な言い方ではあるけれども言葉遣いは透明で明瞭。アドルノのよりはずっと読みやすそうですね。邦訳で迷ったら原文に当たると解決することが多そうな気がしました。)

(1) ベンヤミンにおいて、「技術的technisch」は「手製manuell」の対義語に過ぎないので意味が広い:

本文の冒頭に、

芸術作品は原則的にはつねにreproduzierbarであった。(386頁、ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション1』より引用、以下同じ)

とありますが、ここで言われているのは画家が修業のために行う模写や、商品として流通するレプリカのことです。つづけて、「より新しい事柄」として「technische Reproduktion」が話題になりますが、著者はここに、映画や録音のような20世紀に一般化した新発明だけでなく、「木版」(グラフィックのtechnische Reproduktionとされる)、「活版印刷」(文字のtechnische Reproduktionとされる)という19世紀以前から用いられている技術をも含めています。

「技術的technisch」の語は「手作業manuell」と対比され、何らかの道具・機械を用いた事例を指すようです。そして「技術的なReproduktion」の指す範囲は、意外に広そうです。こうした技術が全面化する(まもなくしそうだ)と身構えざるを得ない事態(=論文タイトルにある「技術的Reproduktionが可能になった時代」)は、20世紀初頭の、ベンヤミンがこの論文を書いた時点での「現在」を指しているのだろうとは思いますが……。

(2) ベンヤミンが想定しているReproduktionはシミュラークル(原像なき模像)ではない:

さらに読み進めると、「手製のReproduktion」は、通常、オリジナルに対する「偽造Faelschung」とみなされる、という一文があり、続けて、「技術的なReproduktion」が検討されますが、そこには、

技術的Reproduktionは、オリジナルの模像Abbildを、オリジナルそのものが到達できないような状況のなかへ運んでゆくことができる。(387頁)

という記述があります。

あきらかに、技術的なReproduktionにおいても、「オリジナルvs模像・写し」の関係が想定されています。おそらく上の引用文は、手書き文書(オリジナル)にもとづく活字本(模像・写し)が広範囲に流通する、とか、ある風景(オリジナル)を撮影した写真・映画(模像・写し)が、元の風景とは縁もゆかりもないところで眺められてしまう、という事態を指していると思われます。

そして、写真や映画、あるいは録音が、もはやどこにも「オリジナル」を求めることのできない質を備えており、なおかつ、同一の図柄をもつ複数の写真、同一の映像連鎖を備えた複数の映画フィルム、同一の音響を記録した複数の音盤においては、どれかひとつを他と区別することが意味をもたない、というような事態を想定しているわけではないようです。

ベンヤミンは、印刷や写真、映画、録音を何か決定的な事態であると感知しており、だからこそ、これらの営為を「technische Reproduktion」と総称しようとしたのだと思われます。

けれども、そこで起きた決定的な事態に対する分析は、「オリジナル」の意義が変質した、という言い方に留まっていて、のちの「複製技術」論や「消費社会」論のように、これらを「原像なき模像」と呼び、もはや「オリジナル」と呼びうる起源が意味をもたなくなった、とポストモダン風の議論を仕掛けているわけではない。

ベンヤミンの時代には、技術がそこまで断言する段階には達していなかったということなのか、あるいは、ベンヤミンの認識が事態の意義を捉え損なっているのか、判定は難しいところだと思いますが、いずれにしても、ベンヤミンは、(まだ)これしか言っていない・書いていない、というところを押さえておかないと、議論が空転してしまいそうな気がします。

こういう点をみても、やはりベンヤミンは、今なおアクチュアルである、というより、「歴史的文書」として取り扱ったほうがいいんじゃないでしょうか。

(そしてこのような事情を踏まえると、Reproduktionという単語をどのような日本語に訳すのがいいのか。通常「複製」と訳されますが、この訳語だと「模造replication」と誤解されそうですし(私は、原文を確認するまで漠然とreplicationに近いイメージで「複製」を考えてしまっていました)……。でも、レプリカを含みつつそれだけではないし、広い意味での「写しcopy/Abbild」の意味を残しつつ、「量産」のニュアンスも含んでいて、なかなか、ひとつの漢語を当てはめるのが難しい言葉であるような気がします。

そうしたことを踏まえたうえで「複製」と言うなら、まあいいかもしれませんが、せめて、ベンヤミンのことを語るときには、複製技術、とあっさり言ってしまわないで彼自身の微妙な言い回しを反映した「技術的複製」という言い方をしたほうが、歴史的な距離感がはっきりするのではないか。そして、ベンヤミンが明快に分析・言語化できない事態を名指そうとしている姿勢を日本語に読み込むとしたら、「複製」という言葉を避けて、敢えて無骨に、具体的なイメージを結びがたい文字の並びを選んで、「技術的再生産」と訳してもいいんじゃないか、という気がします。)