2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧

醜い鳥のドラマトゥルギー

自分が今まさにその場を立ち去ろうとするその瞬間に、どうだ、とばかりに狙い澄ましたマウンティング感満点の、でも実は偏見と自惚れにまみれた凡庸さに過ぎない悪口を捨台詞として投げ捨てて、見事に「後を濁す」。この賢く下品な鳥たちに天罰がくだります…

シンパシーの限界

SNSの意識の高いクラスターがにわかにテレビ批判に回る現象には、元東大教員に漠然と「身内」意識を持ってしまう彼らのドメスティックな俗情(それは「愚民」と彼らから見える人々が、他人事として有名人の些末な失態を叩く心情と構造的に何も変わらないと思…

昭和30年の森正

森正はN響で正指揮者の称号を得るに至ったのに、何故か影が薄い。天王寺商業学校音楽部でフルートを吹いていたが、1921年生まれなので大栗裕の3年後輩、天商バンドができて、またたくまに大阪で有名になった戦前の輝かしい時代を大栗裕と一緒に過ごしたこと…

顔合わせ

芸術新潮1956年11月号に、森正、吉田雅夫、岩淵龍太郎などのオケマンが吉田秀和の司会で日本のオーケストラの現状を語り合う座談会が載っている。柴田南雄の自伝と照合すると、翌年夏の軽井沢の現代音楽祭に向けて水面下の準備が進んでいた時期であるらしい…

風物詩

年間のスケジュールから考えると、今は秋以後を見据えた諸々の仕込みをしながら、夏休み前までに一区切りつけたい仕事が佳境に入る大事な時期だと思うので、こういう時期に「政治」のネタを投下するのは止めて欲しい。梅雨入りで気候もいまいちなのだし、周…

ライヴ批判のワナ

虚構・フィクションこそが速報性の批判に有効である、という風に論理を構成すると、生(LifeかつLive)をリアルであるかのように演出するメディアのカラクリがかえって隠蔽されてしまうのではないか。(「リアル」とは「生(ナマ)」のことである、というの…

「星空の下の音楽會」

芸術新潮は、最初にグラビアページがあって、次に「芸術新潮」という各界の動静を伝える匿名記事があり(適宜人が入れ替わっているようだが専門の評論家・ライターが書いている印象)、そのあとに「ぴ・い・ぷ・る」というアーチスト本人のコメントを列挙す…

『地域アート』、善良をどう批評するか

地方芸術祭のいかがわしさは、地方オケや地方オペラを批判してはいけないかのような空気とたぶん同根で、団塊全共闘風のマイクロ・ユートピアの理念と当世風の「つながり」論との野合を見出すところとか、うまく攻める立論だと思う。私たちの社会には、「善…

関西系都市文化論のカラクリ

谷崎潤一郎が関東大震災後に関西に移住したことと、京都人の神戸好き(大阪嫌い)&阪神間の人々の京都好き(大阪嫌い)を掛け合わせる感じに、関西を拠点とする都市文化論の系譜が脈々と続いている印象がある。戦後再独立でナショナリズムが高まったときに…

自由という永久機関

「それ自体を目的とする行為」というのは、要するに啓蒙的理念としての「自由」なわけだが、ひょっとすると、統計力学は、自由な振る舞いを観察する際のモデルのひとつになり得るかもしれない。……というようなことを思いながら、この本を読み返している。新…

無目的もしくは自己目的な行為

「それ自体を目的とする行為や過程」という発想が芸術や遊びの定義に出てくることがあるようだが、これに特異点として着目するのは近代特有ということになるのだろうか?「自由学芸」というキリスト教会風の括りの力点はおそらく思惟(アタマ)と労働(カラ…

オーケストラとオペラ歌手の「ポップス・コンサート」

2013年頃から Todo として保留していたことを調べ始めた。大フィルと関西歌劇団の「ポピュラー・コンサート」である。大栗裕も編曲で関わっている可能性がある。例によって、私はこれらのコンサートに大栗裕がどのように関わったか、ということさえわかれば…

普通の言葉の翻訳

特殊なタームの翻訳は、通常、関係者がそれなりに注意深くやるからまだいい。普通の言葉がワナだと思う。うた、とか、あせび、とか。「無」は最たるものだろう。深遠なことが言えてしまうから困る。

○○は最悪である、……を除けば、だが。

「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」というチャーチルの言葉の「民主主義」の項に「軍隊」を、「政治体制」の項に「暴力」を代入すると、それらしい文を作ることができてしまうかもしれな…

遊びとludus

その方面の教養がないだけなのかもしれないのだけれど、欧米の ludus 系の言葉 play や jeu や Spiel と、日本語の「遊び」という言葉に互換性がある、というのが、どうも腑に落ちない。そういうえば、音楽に関して「遊び」という日本語で呼ばれるのがぴった…

「小狂詩曲」の周辺、1960年代の大栗裕

大栗裕が1966年の吹奏楽コンクール課題曲「小狂詩曲」を発表する以前に、大阪府警察音楽隊のために作曲した2つの作品。こちらは1963年作曲。二つの踊り(大栗裕)こちらは、第1番が1964年、第2番が1965年(ということは小狂詩曲作曲の数ヶ月前)。吹奏楽の…

IFの領域

「もし○○が今生きていて、この問題を考えたとしたら……」という仮定にどう対応するか。残された著作等から、いわばその人物のクローンを再生するように○○の思想を再構成して、そのようなクローンに当該の問題をインプットしたらどうなるか、とシミュレーショ…

ヴォツェックのLP

昭和27年(1952年)の芸術新潮9月号の座談会で、吉田秀和は「先日、中島健蔵の家でヴォツェックのレコードを聴いた」と言っている。ミトロブーロスのLPだと思うのだが、ヨーロッパへ行く少し前まではこういう状態だったんですね。別の号では、鳴り物入りで来…

異化効果の有効範囲

Wikipedia の英語版とドイツ語版で Peter Konwitschny の項目を比較すると、ベルリン仕込みの異化的な読み替え演出が英語圏では不発に終わって、関心を呼んでいないんだろうなあ、と思わせられる。異化効果は不発に終わることがあって、その感じは、お笑いで…

「異化」の英訳

20世紀のアートを考えるときには、「新しさ」という19世紀以前から引き継がれたと思われる価値評価よりも、「異化」(「同化」との決別)のほうが重要なんじゃないかと私には思えるのだけれど、ロシアフォルマリズム文学論のシクロフスキーの отстранения [o…

1960年代の都市の膨張

東京どこに住む? 住所格差と人生格差 (朝日新書)作者: 速水健朗出版社/メーカー: 朝日新聞出版発売日: 2016/05/13メディア: 新書この商品を含むブログ (1件) を見る本題は、今再び東京都心に人が住みたがるようになっている、という話だが、「1960年代には都…

虚実とは?

近松門左衛門の浄瑠璃観とされる「虚実皮膜論」は、今では高校の古文の教材にも採用されているらしいのだが、穂積以貫が近松没後に「難波土産」に載せた伝聞、というところがややこしいし、むしろ、そんな穂積以貫の次男が近松半二だ、ということのほうが気…

虚業と走り屋

実業・虚業を英訳しようとすると、それぞれを industry、risky buisiness と言うしかなく、日本語における虚と実の対比が消えてしまうらしい。また、物理学の周辺であれこれさまよっているうちに、自動車の性能をめぐって、「加速にはトルクが効く」とか、「…

ジュリアードとプリンストン

ニューヨーク生まれのチャールズ・ローゼンは、父が建築家で母がセミプロの役者だったらしい。一種の天才少年だったらしく、ジュリアードでローゼンタールやヨーゼフ・ホフマンに師事して、そのあとプリンストンでフランス文学を学んだそうだが、1940年代後…

新しい器に何を入れるか?

蓮實・柄谷があった場所に入れる新しい本棚には、美術・演劇など芸術諸学の本を置こうかと思っておりますが。*アン・フリードバーグは『ヴァーチャル・ウィンドウ』で北米に亡命したパノフスキーの映画論に着目しているけれど、ヴァーチャル・ウィンドウ―ア…

文学と哲学、諸言語の物理学と言語による数学

佐々木健一先生は、仏文から美学の大学院に進学されたらしいことをウィキペディアで知り、へえ、と思うとともに、なるほどなあ、と思った。哲学が概念の分析(英米流分析哲学)を強調すると、「言語の数学」と呼びたくなる性格が表に出るように思うのだけれ…

諸言語の力学

[訂正あり: Entdeckung の語を失念していたので修正。]複数の言語・文化圏を横断・往来しながら運用されている概念を取り扱うときに、言語間の語の対応関係がどうなっているのか、「言語の物理学」のような層があって、一筋縄ではいかないことがある。音楽用…

radiationの20世紀

アインシュタインの父はミュンヘンやミラノにアーク灯を敷設する事業を請け負ったりしていた人で、アインシュタインも、自分がやっていることが「発見」ではなく「発明」と呼ばれることを望んだらしい。だとしたら、アインシュタインという人物を、科学史に…

昨日の世界

というより、単に、私が昨日こうだった、というだけのことですが、佐々木健一先生と短時間ですが同席させていただく機会があって、帰宅後、昔NHKでやっていたカツァリスのショパンのレッスンを見直す機会を得た。1933年放送だったんですね。「弟子たちから見…

美学者のゼロ年代

別に美学は芸術のことだけ扱っているわけじゃないけれど、世間ではそういうことを期待されているようなのでこの本は芸術を取り上げます、と、ものすごく素っ気ない調子ではじまって、「西欧の近代」というのは、つまるところ「人間的な」、あまりにも人間的…